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ピアノの鍵盤が、ひとつだけ戻らなかった

ピアノの鍵盤が、ひとつだけ戻らなかった

濡れたスニーカーが歩くたびに、ぺちゃぺちゃと情けない音を立てる。湿ったアスファルトの匂いが鼻をつき、冷たい雨が首筋を伝う。誰が一番先に「雨、最悪」と言うか賭けていたけれど、結局全員が同時に深い溜息をついた。ホテル平安の入り口に辿り着いたとき、私たちは完全にずぶ濡れで、お互いの惨めな姿を見て同時に吹き出した。冷え切った体に、ロビーの温かい空気が心地よく、そんな最悪の始まり方こそが正解だったのかもしれない。



水晶のプレートの上で焼かれる黒毛和牛。肉が触れた瞬間の、あの激しいジューという快音と、香ばしい脂の香りが一気に広がった。弾けた脂が頬に飛んだけれど、誰も気にしなかった。口の中でとろける快感よりも、「誰が一番多く食べるか」という低レベルな競争に夢中になっていた。会席料理の豪華さに圧倒されながらも、私たちは野生的に肉を頬張った。結局、一番多く食べたやつが、食後の心地よい倦怠感に負けて真っ先に寝落ちした。


ピアノの鍵盤を押し込んだときの、あの少し重く、しっとりとした感触。「私、実はピアノ弾けるから」なんて豪語したあいつが、意気揚々とグランドピアノの前に立った。けれど、静まり返ったホールに響いたのは、音楽というよりは、迷子になった子猫が必死に鳴いているような不協和音。あまりにひどい音色に、私たちは全力でツッコミを入れた。笑い声が天井の高い空間に反響し、心地よい恥ずかしさが胸に広がった。


浴衣の帯が指に絡まって、うまく結べないもどかしさ。さらりとした生地が肌に触れるたび、慣れない作法に四苦八苦する。結局みんなで「どうやるんだっけ」と、真剣すぎる相談会が始まった。誰かが適当に結んだ帯が、歩くたびにゆるゆると解けていく。それを「これが最新のトレンドなんだよ」と言い張って、そのまま廊下を闊歩した。正解なんてどこにもなかったし、なくてよかった。


指先で触れた窓ガラスが、雨でひんやりと冷たかった。外には、雨に濡れて色を深めた紫陽花。濃い青色が、まるで誰かがキャンバスに絵の具をこぼしたみたいに鮮やかだった。い草の香りが漂う静まり返った和室で、ただ雨音だけを聴いていると、ついさっきまでの自分たちの騒がしさが、遠い国の出来事のように感じられた。心の中まで、しっとりと静寂に染まっていく。


天然温泉に浸かった瞬間、肌を刺すような熱さに「あっ」と声が出た。けれど、じっとしていると、その熱さがゆっくりと芯まで溶け込んでいく。脱衣所で裸足で踏んだタイルのひんやりとした冷たさと、お湯の熱い抱擁。その境界線が、心地よく揺れていた。そういう温度の差こそが、旅の輪郭をくっきりと描き出すのだと思う。


濃い闇の中に、小さな光がひとつ、ふたつ。ホタルだった。誰かが「見て!」と声を上げたけれど、私たちはあえて静かに、その儚い光が消えるまで見守っていた。夜の空気が肌に心地よく、呼吸さえも忘れるほどだった。人生で一番、静かに感動した瞬間だったかもしれない。言葉にする必要なんて、どこにもなかった。


シャトルバスの座席に深く沈み込んで、心地よい振動に身を任せる。隣を見ると、みんな心地よい疲れで半分眠っている。完璧な旅ではなかったけれど、この不完全さが、私たちらしいなと思った。誰一人として予定通りに動かなかったけれど、それで十分だった。デザイナーズルームのモダンな空間に浸った時間も、雨に濡れた時間も、すべてがかけがえのない記憶になった。

窓の外を流れる雨粒が、ゆっくりと形を変えていく。

  • 水晶焼の和牛は、絶対にお腹を空かせてから挑んでほしい。
  • ピアノホールでの「不協和音セッション」、ぜひ試してみて。