← 戻る 伊豆 伊東温泉 ホテル暖香園

浴衣の袖が畳に触れる、小さな音だけが聞こえていた

黄金色の出汁と、頬に付いたねぎトロの記憶

冷房が心地よく効いたダイニングホールに足を踏み入れた瞬間、外のじっとりとした熱気が嘘のように消え去った。鼻腔をくすぐるのは、食欲をそそる出汁の芳醇な香りと、どこか懐かしい、古い絨毯が長い年月をかけて吸い込んできた時間の匂いだ。朝食ビュッフェのプレートに、次男が山盛りのねぎトロを盛り付けていた。その小さな指先が、ねぎトロのねっとりとした質感に触れ、気づけば頬にべっとりと付いている。それを拭うタイミングを逃している間に、長女が「お父さん、見て!ここ、お魚が泳いでるみたい!」と、誰にも気づかれないような小さな盛り付けの工夫を指差して、屈託なく笑っていた。大人はコーヒーの深い苦味で意識を覚醒させようとするけれど、子供たちの世界は、目の前の白いご飯と色とりどりの副菜だけで完結している。家族旅行というのは、きっと誰かが何かをこぼし、誰かがそれを慌てて拭き取り、それでも最後には「おいしいね」と言い合える、そんな不器用なチーム戦のようなものかもしれない。ホテル暖香園の広いホールに響く、あちこちの家族の賑やかな話し声。その喧騒さえも、心地よいBGMのように耳に馴染んでいった。私たちは急ぐことなく、ただ目の前の食事がもたらす小さな充足感に身を任せていた。

陽炎に溶けるアイスと、不揃いな歩幅の旅

ホテルを出て大室山の方へ歩き出したとき、七月の伊東の太陽が容赦なく降り注いできた。アスファルトから立ち上がる陽炎が視界をわずかに歪ませ、世界がゆらゆらと揺れている。道端で買ったアイスクリームが、想像以上の速さで溶け出し、子供たちの手のひらをべたべたと濡らしていた。「あー!溶けちゃう!」と叫ぶ次男の声を追いかけながら、私は自分のサンダルが地面を叩く、乾いた乾いた音に耳を澄ませていた。完璧なスケジュールなんて、最初からありえない。長女がふと足を止めて、道端に咲く名もなき小さな花をじっと見つめていたから、私たちの行軍は何度も中断された。けれど、その空白の時間にこそ、旅の本当の輪郭がある気がする。汗でシャツが肌に張り付く不快感さえも、後になれば「あの時は本当に暑かったね」という共通の記憶に変わるはずだ。歩く速度がバラバラで、誰かが遅れ、誰かが先を急ぐ。そんな不揃いなリズムで歩く心地よさを、私は静かに味わっていた。暑さに疲れてふと見上げた空の青さが、あまりに濃くて、少しだけ眩暈がした。それでも、子供たちの弾むような足取りを見ていると、この不自由な暑ささえも、贅沢な時間のように感じられた。

畳の香りと、夜の静寂に溶けるポテトチップス

部屋に戻り、さらりとした浴衣に着替えて畳の上に寝転がったとき、鼻腔をくすぐったのは、古くからここにある畳と、かすかな線香のような、心を落ち着かせる香りだった。エアコンの低い唸り音が、部屋の静寂をかえって際立たせている。子供たちは、コンビニで買ったポテトチップスを分け合いながら、今日あった出来事をとりとめもなく話し合っていた。塩気の強いチップスの香りが、和室の静謐な空気の中に小さく混ざり合う。やがて、会話の間隔がゆっくりになり、心地よい寝息が部屋を満たし始めた。隣で眠る子供たちの、規則正しい呼吸の重み。その温もりを感じながら、私は一人、天井を見上げていた。ホテル暖香園の廊下からは、時折、館内のボウリング場から漏れてくるピンの倒れる快い音が、遠くの方で小さく響いている。その音が、このホテルが持っている、どこか懐かしい昭和の時代の記憶を呼び覚ます。私たちは、誰かの期待に応えるための旅ではなく、ただここにいて、一緒に時間を消費することに意味がある旅をしていた。枕元に置いた冷たい水の一杯が、喉を通る感覚が心地いい。明日になれば、また騒々しい日常が始まるけれど、今のこの静寂だけは、誰にも邪魔されたくない大切な隙間だった。子供たちの小さな手が、私の指にふわりと触れた。その感触だけで、十分だった。

窓の外では、音もなく夜空に大輪の花火が静かに咲いていた。

  • 朝食ビュッフェのねぎトロは子供たちが夢中になる味。多めに盛り付けて、家族でゆっくりと味わってください。
  • 大室山への散歩は、あえて時間を決めずに。道端の小さな発見こそが、家族にとって最高の思い出になります。