← 戻る 奥定山渓温泉 佳松御苑 (カショウギョエン)

森の呼吸と、肩と肩のあいだの空白

森の呼吸と、肩と肩のあいだの空白

視線が分かれる、青い部屋の入り口

指先に触れたタモ材の表面は、驚くほど滑らかで、少しだけ冷たかった。客室「藍」のドアが開いたとき、最初に飛び込んできたのは、深い森の匂いと、計算された静寂だ。札幌軟石の壁が、外の世界の喧騒を丁寧に吸い込んで遮断しているのがわかる。視線は自然と、森に開かれた展望風呂へと向かった。そこにあるのは、単なる設備ではなく、風景を切り取る額縁のような空間。9月の光が、室内の深い青と混ざり合い、境界線がぼやけていく。足元のカーペットが厚く、歩くたびに自分の足音が消えていく感覚。まるで、世界から切り離されて、ただこの部屋の呼吸だけが聞こえる場所に辿り着いたという気がした。もしかしたら、私たちはここで、自分たちが持っていた「役割」を脱ぎ捨てることができるのかもしれない。


隣に立つ君の、少しだけ緊張した肩のラインが見えた。部屋に入った瞬間、君が小さく息を呑む音が聞こえ、それが心地よく耳に残った。私は、窓の外に広がる深い緑よりも、その光の中に立つ君の横顔に目を奪われていた。スランバーランドのベッドに指を沈めると、包み込まれるような柔らかさがあり、不意に、ここで君と一緒に深い眠りに落ちる時間を想像して、胸の奥がじんわりと温かくなった。ディナーのイタリアンコースで出される白老牛の香りが、もうすぐそこまで来ているような気がして、お腹が空いていることよりも、この心地よい緊張感をずっと味わっていたいと思った。浴衣の帯を締め直す君の手つきが少しぎこちなくて、その不完全さが愛おしく、今の私たちにはちょうどいい距離感なのだと感じた。

ふたりが同時に見つけた、銀色の揺らぎ

夜、テラスに出たとき、私たちは同時に言葉を失った。目の前に広がっていたのは、月光に照らされて白銀に輝くすすきの群生だった。風が吹くたびに、それは大きな波のようにゆっくりと揺れ、さらさらという、耳の奥を撫でるような乾いた音を立てていた。その光景は、まるで和紙の上に落とした一滴の墨が、ゆっくりと、けれど確実に繊維の奥まで滲み出していく過程に似ていた。誰が先に口を開いたわけでもなく、ただ隣にいて、同じリズムで風を感じている。もしかしたら、愛とは激しく燃えることではなく、こうして同じ静寂を共有し、お互いの呼吸が重なるのを待つことなのかもしれない。

その後、部屋に戻って味わったイタリアンのソースの深いコクと、冷えた白ワインの酸味が、身体の芯まで解きほぐしていく。お互いの視線が合うたびに、言葉にしなくても伝わる安心感があった。それは、完璧な理解ではなく、「わからなさを共有している」という心地よさだ。展望風呂の湯船に浸かり、森の闇を見つめながら、私たちはただ、お互いの存在という確かな温度だけを感じていた。そこにあったのは、埋める必要のない空白であり、むしろその空白があるからこそ、ふたりの輪郭が柔らかく溶け合い、心地よく混ざり合っていく感覚だった。奥定山渓温泉 佳松御苑の静寂は、私たちに「ただそこにいていい」という許可を与えてくれた気がする。


夜明け前の深い青の中で、君の寝息だけが、世界で一番信頼できる音だった。
  • 展望風呂で、あえて会話を止めて、森が立てる小さな音に耳を澄ませてみること
  • 食後のテラスで、月明かりに照らされたすすきのの揺らぎを、ただ黙って眺める時間