← 戻る 奥定山渓温泉 佳松御苑 (カショウギョエン)

濡れたアスファルトに、春の匂いが混ざり始めたとき

濡れたアスファルトに、春の匂いが混ざり始めたとき

凍てつくベンチと、心地よい不協和音

札幌駅のベンチに腰を下ろした瞬間、芯まで冷える金属の感触に思わず肩をすくめた。四月の風はまだ遠慮がなく、冬の名残を孕んだ冷気が頬を鋭く撫でていく。私たちは密かに賭けていた。誰が一番先に「忘れ物をした」と気づくか。結果、案の定、一番自信満々にスケジュールを管理していた彼が、パスポートを家に置いてきた。「嘘だろ、お前が一番危ないと思ってたよ」と誰かが笑い、呆れた溜息が白い吐息となって冬の空気に混ざり合う。出発が三十分遅れたおかげで、駅前のコンビニで温かい飲み物を買い込む贅沢な時間が生まれた。ぬるい缶コーヒーの温度が、かじかんだ指先にじわりと伝わってくる。キャリーケースの車輪が濡れた路面を叩く、不規則で騒がしいリズム。誰かが「これでいいんだよ、旅は予定通りにいかないから面白いんだ」と根拠のないことを言い、みんなでそれに乗っかる。そんな小さな、どうでもいい時間のズレが、旅の始まりにはちょうどいい。完璧な計画よりも、こういう隙間がある方が、一緒にいる時間が心地よく感じられるのだと思う。

境界線を越え、深い緑の呼吸へ

送迎バスに揺られ、奥定山渓へと向かう道中。窓ガラスにそっと触れると、冷たい結露が指先に張り付き、外の世界との境界線を曖昧にする。街を離れるにつれて、景色から灰色が消え、鮮やかな緑が浸食してくる。空気の密度がゆっくりと、しかし確実に変わっていくのがわかった。気圧がわずかに下がり、湿度が上がり、肺の奥まで森の濃厚な匂いが入り込んでくる感覚。もしかすると、私たちは目的地に向かっているのではなく、ゆっくりと深い眠りの中に潜り込んでいるのかもしれない。ふと視線を外に向けると、まだ蕾のままで震えている桜の木が、点々と過ぎ去っていく。ふと運転手さんが「あそこの路地を曲がると、隠れた名所があるんですよ」と教えてくれた。ガイドブックには絶対に載っていない、正解のない景色。私たちはその名もなき路肩に咲く小さな花に目を奪われ、「あそこに止まってほしい」と冗談めかして囁き合う。車内を流れる静寂さえも、心地よいテクスチャを持っていて、都市の騒音が遠のく代わりに、風が木の葉を揺らす低い音が意識の底に溜まっていく。私たちはただ、その心地よい重さに身を任せ、日常という殻を脱ぎ捨てていった。

藍色の静寂に、心まで溶け出す時間

奥定山渓温泉 佳松御苑に足を踏み入れた瞬間、鼻腔をくすぐったのはナラやタモの木材が放つ、静謐で深い香りだった。案内された「森の展望温泉客室 藍・Ai」のドアを開けると、そこには外の喧騒をすべて吸い込んだような、心地よい空白が広がっていた。裸足で踏みしめた床の温度は、ちょうどいい冷たさと温かさの境界線にあり、足裏から静かに緊張が解けていく。誰が先にベッドに飛び込むかという幼稚な競争が始まり、結果的に一番にダイブした私が、マットレスの深い沈み込みに歓声を上げた。その感覚は、まるで巨大な白い雲に包み込まれたみたいだ。身体の輪郭が曖昧になり、ただ「心地よい」という純粋な感覚だけが残る。

その後、客室の展望風呂に身を委ねると、目の前に広がる原生林が呼吸するように揺れている。お湯の温度が肌に馴染み、凝り固まった肩の力が、ゆっくりとほどけていく。湯気に包まれて視界が白く霞むその向こう側で、森の緑が濃淡を持って揺らめく。自分が風景の一部に溶け出していくような、心地よい喪失感。夕食のイタリアンコースでは、北海道産の白老牛が口の中でゆっくりと解けていき、添えられたキタアカリのジャガイモの甘みが、心まで満たしてくれる。ワイングラスの中で氷が小さく鳴る音。友人たちと、今の自分たちがどれだけ不器用で、だからこそ心地よい関係であるかを、わざと冗談めかして語り合った。札幌軟石の壁に、控えめな光が落ちている。ここでは、何もしないことが、一番贅沢なことなのだと気づかされる。

窓の外で、夜の森が静かに深い呼吸を繰り返していた。

  • 展望風呂では、あえて時間をずらして、森の色の変化をゆっくりと堪能してほしい。
  • 地元の食材を活かしたイタリアンコースは、ぜひシェフにこだわりを聞いてみて。