← 戻る SAKURA定山渓 膳 (サクラジョウザンケイ ゼン) (SAKURA JYOZANKEI ZEN)

湯気の中で、少しだけ言葉を忘れた

「ここ、本当に私たちだけなのかな」

「うん、非対面チェックインだって書いてあったし。今は僕たちだけの時間なんだと思うよ」
入り口に置かれたタブレットの、指先に伝わる冷たいガラスの感触。君は少し不安そうに、けれど好奇心を隠せない瞳で僕を見た。
「誰にも会わなくていいなんて、なんだか不思議な気分」
電子ロックがカチリと小さく鳴った瞬間、外の喧騒が消え、心地よい静寂が塗り替えられた。私たちは、世界から切り離された小さな箱の中に、そっと足を踏み入れた。

静寂に溶け合う、二人だけの呼吸

靴を脱いで踏み出した床の温度が、ちょうどいいぬるま湯のように足裏に馴染む。SAKURA定山渓 膳の空間は、一棟貸切という贅沢な静寂に包まれ、何かを強制することなく、ただそこに在ることを許してくれる。ここでは、ホテルのスタッフに完璧なゲストとして振る舞う必要も、誰かに気を遣って微笑む必要もない。ただ、隣にいる君の呼吸の速さに、自分のリズムを合わせていけばいい。そんな気がした。木材の淡い香りが鼻腔をくすぐり、外の世界で張り詰めていた心の糸が、ゆっくりと緩んでいく。

人工温泉の湯船に体を沈めると、肌を包む水の重みが、凝り固まっていた思考を心地よく解いていく。お湯の温度は、体温よりほんの少しだけ高い。そのわずかな差が、自分と他人の境界線を曖昧にし、溶かし合わせてくれる。ふと気づくと、私たちはどちらからともなく、今日あった些細な出来事や、遠い昔に話したけれど忘れていた記憶について語り始めていた。言葉にするまでもない想いが、白い湯気と一緒に空気に溶けていく。それは会話というよりも、お互いの体温を確かめ合い、魂の輪郭をなぞり合う作業に近いのかもしれない。

一番心に残ったのは、専用の配膳ボックスに届く食事を待つ、あの静かな時間だ。インターホンの音が控えめに鳴り、扉を開けると、そこには温かい湯気を立てた料理が整然と並んでいる。誰にも会わずに食事が届くという仕組みは、一見すると冷たく感じるかもしれない。けれど実際には、それが私たちをより親密な、二人だけの閉じた世界へと閉じ込めてくれる。地元のカボチャを使った料理の、濃厚で甘い香りが部屋いっぱいに広がったとき、君が「美味しいね」と小さく笑った。その声が、静まり返った空間に心地よく響き、心まで満たされていく。わざわざ贅沢なことをしなくても、ただ一緒に同じ味を感じているだけで、十分すぎるほど満たされていた。

午後は、それぞれが本を開いて、あえて沈黙を共有した。ページをめくる乾いた音と、外で風に揺れる紅葉のささやき。140センチのダブルベッドに並んで横になると、肩と肩の間にわずかな隙間がある。その空白が、今の私たちには心地いい。無理に埋めようとしなくていい、信頼に基づいた距離感。もしかしたら、私たちはこの心地よい距離を探して、ここまで来たのかもしれない。10月の定山渓の空気は凛として冷たいけれど、この部屋の中だけは、春のような温もりがずっと漂っていた。本当の贅沢とは、何もない時間を誰と一緒に過ごすかということなのだと、柄にもないことを考えながら、私は君の穏やかな寝顔を見つめていた。

窓の外で、最後の一枚の紅葉がゆっくりと、けれど確実に地面へ落ちていった。

  • 次に来るときは、お互いに読みたかった本を一冊ずつ持って行こうか。
  • 帰り道は二見吊橋までゆっくり歩いて、秋の深い匂いをたくさん吸い込もう。