← 戻る ホテル湖龍

ページをめくる音だけが、部屋に満ちていた

「全部読み切るまで、外に出ないっていうのはどう?」

「ここ、本当にいいところだね」
君がそう言って、もこもこしたクッションに深く沈み込んだ。
「そうだね」
僕が答える。手元には、適当に選んだ古い漫画の一冊。
「全部読み切るまで、外に出ないっていうのはどう?」
いたずらっぽく笑う君の指先が、少しだけ寒そうに震えていた。僕たちはどちらからともなく、心地よい沈黙の中に潜り込んだ。

表面張力のような、静かな距離感

11月の河口湖は、空気が凛としていて、吐き出す息が白く濁る。ホテル湖龍のロビーを抜け、漫画ライブラリー『りゅうのす』に足を踏み入れたとき、まず鼻をくすぐったのは、古い紙が放つ乾いたインクの匂いだった。それは外の湿った秋風とは対照的な、完結した世界のような安らぎがある。僕たちはあえて言葉を交わさず、隣り合った。二人の間には、水滴が触れ合う直前の表面張力のような、絶妙な距離感がある。近づきすぎれば混ざり合ってしまうし、離れすぎれば冷えてしまう。そんな危ういけれど心地よい均衡。そこにいるだけで、今の僕たちの関係性が、ちょうどいい温度で保たれている気がした。

ふと、君が僕の肩に頭を預けた。浴衣の柔らかな綿の感触が、肌を通じてじんわりと伝わってくる。その体温が、今の僕には何より心地いい。窓の外では紅葉が燃えるような赤に染まっているけれど、この空間だけは深い瑠璃色に沈んでいる。途中で君が漫画の面白いシーンに小さく吹き出した。その拍子に、持っていたお茶が少しだけこぼれ、テーブルの上に小さな水溜まりができた。君は慌てて指でそれをなぞり、「あ、地図みたい」と笑った。その何気ない仕草に、胸の奥がふわりと軽くなる。正解を探す旅をしているわけじゃない。ただ、お互いの呼吸が重なるリズムを、ゆっくりと確かめ合いたいだけなのだ。

客室の和洋室に戻り、裸足でフローリングを踏むと、ひんやりとした感触が足裏から突き抜けた。窓まで歩く数歩の間、自分の足音が静まり返った部屋に小さく響く。バルコニーに出ると、富士山の巨大なシルエットが、濃紺の夕焼けに切り取られていた。その圧倒的な輪郭を、君と一緒にただ眺めていた。言葉にできない感情が、毛細管現象のように、ゆっくりと僕たちの間に染み込んでいく。

その後、温泉に身を委ねれば、熱いお湯が肌にぴったりと馴染み、凝り固まっていた心までほどけていく。外の冷たい空気と、内側の熱い温度の境界線で、思考がぼんやりと溶けていく感覚。夕食に出たほうとうの、太い麺が口の中で踊る弾力と、根菜の甘い蒸気が鼻をくすぐる。熱い汁をすすりながら、「美味しいね」と視線を交わす。それだけで、十分すぎるほど満たされていた。

夜、湖畔に上がった芸術花火が、夜空を鮮やかな色で塗り替えていく。その光が湖面に反射して、ゆらゆらと揺れていた。僕たちは、その光の粒がゆっくりと夜の底へ沈んでいくのを、肩を寄せ合って見つめていた。僕たちが今ここにいることは、もしかしたら、とても幸運なことなのかもしれない。

湖面に溶け出した花火が、ゆっくりと夜の底へ沈んでいった。

  • 漫画ライブラリーで、お互いにおすすめの一冊をこっそり選び合ってみて。
  • 露天風呂から見える富士山を、言葉を交わさずに静かに見つめてみて。