← 戻る 湖のホテル

ベッドから窓まで、あと三歩あった

ベッドから窓まで、あと三歩あった

「誰が一番に起きて富士山を撮るか」という賭けに、私たちは全員敗北した。午前10時。遮光カーテンのわずかな隙間から、鋭い春の陽光が突き刺さる。シーツの冷たさと、まだ眠い意識が混ざり合う心地よい混沌。4月の空気は凛としていて、誰かが小さく身震いしたとき、この旅が最高の「不完全さ」から始まることを確信した。



朝食の湯気が、眼鏡を真っ白に染め上げる。地元の山菜や出汁の芳醇な香りが、眠っていた嗅覚を優しく叩き起こした。温かい汁物を啜った瞬間、塩気と甘みが喉を通り、胃の底からじんわりと体温が上がる。河口湖の朝の静寂と、食器が触れ合う小さな音が、心地よいリズムを刻んでいた。


「今の角度、絶対富士山が入ってないから」
「いいじゃん、雰囲気で撮れば」
「雰囲気で旅してどうするんだよ」
15分間、小さなスマホの画面を囲んで、私たちは子供のように言い争った。結局、誰の一枚も正解ではなかったけれど、そのくだらない口論こそが旅の醍醐味だ。呆れ果てた君の顔が、どの絶景よりも鮮やかな被写体だった。


屋上のスカイバーへ出ると、冷たい風が耳元で激しく騒いでいた。誰かの帽子が飛ばされそうになり、それを必死に追いかける姿に全員で大爆笑する。コンクリートのひんやりとした感触と、遠くに霞む山々の稜線。計画通りにいかないことが、ここでは最高の贅沢に感じられた。


湖の青が、底の見えないほど深く、濃い。静寂が物理的な重さを持って降りてきて、世界から音が消えたような錯覚に陥る。ふと、隣にいる友人の静かな呼吸が聞こえた。言葉を交わさなくても、同じ青を共有しているという絶対的な安心感。孤独という臓器が、心地よく脈打っているような時間だった。


湖のホテル。60年の月日が染み込んだ厚いカーペットが、私たちの足音を優しく飲み込んでいく。エレベーターのボタンの、わずかに削れた角に指先で触れる。ここを通り過ぎていった数え切れない旅人たちの記憶が、静かに呼吸している気がした。新しすぎる場所にはない、誰かに受け入れられているという深い安らぎがそこにはあった。


不意に、強い風が吹き抜けた。視界が、一瞬で淡いピンク色に塗り替えられる。舞い上がった桜の花びらが、頬をかすめてそのまま湖へと吸い込まれていった。まるで世界が魔法で書き換えられたような錯覚。私たちはただ、口を開けて、その儚い光景に心を奪われていた。


完璧な旅なんて、きっと退屈でしかない。忘れ物をし、寝坊し、くだらないことで言い争う。それでも、最後に振り返ったとき、一番鮮明に心に残っているのは、そんな不格好な瞬間ばかりだ。ありのままの自分でここにいていいのだと、この場所が静かに肯定してくれた気がする。

半分切れた富士山と、笑いすぎた私たちの顔が写る一枚の写真。

  • 朝一番の澄んだ空気を吸いに、ぜひ屋上へ上がってみて。風が最高に心地いいから。
  • 湖のホテルでの朝食は、時間を忘れてゆっくり味わうのが正解。地元の味が染みるよ。