「本当に行くの?」
「本当に行くの?」
君がそう問いかけたとき、僕たちは宇奈月温泉駅のホームに立っていた。九月の空気はまだ重く、肌にまとわりつくような湿り気を帯びている。僕は答えを出す代わりに、ただ小さく頷いた。正解なんて分からなかったけれど、今の僕たちには、この不確かな目的地が必要だったのだと思う。駅からの短い道のり、濡れた石畳の匂いが鼻をかすめ、僕たちはどちらからともなく、ゆっくりと歩幅を合わせた。
答えが届くまでの空白という心地よさ
大江戸温泉物語Premium 鬼怒川観光ホテルに足を踏み入れたとき、最初に触れたのは浴衣の生地の、少しパリッとした乾いた質感だった。指先で触れるたび、旅の緊張がゆっくりとほどけていくのが分かる。ここでは、時間の流れ方が日常とは違うのかもしれない。僕たちが交わす会話には、どこか心地よい「ラグ」がある。問いかけてから、相手が微笑むまでのわずかな空白。それはまるで、遠い山の方で雷光が走った後、しばらくしてゆっくりと轟音が届くまでの、あの静かな待ち時間のような感覚だ。その空白こそが、今の僕たちにとって一番贅沢な時間なのだと感じる。
大浴場の露天風呂に身を浸すと、熱いお湯が肌を包み込み、同時に冷たい秋の風が額を撫でていく。温度の境界線が曖昧になり、意識が心地よく溶けていく感覚。隣にいる君の呼吸が、白い湯気に混じって静かに聞こえる。誰かに何かを証明する必要もないし、無理に言葉で隙間を埋める必要もない。ただ、お湯の温度がちょうどよかったということだけを、静かに共有していればいい。もともと、距離というのは埋めるためのものではなく、そこに在ることを認めるためのものだったのかもしれない。肩と肩のあいだにある数センチの隙間が、今はとても呼吸しやすい場所に感じられた。
夕食のバイキングでは、富山ならではのブラックカレーに出会った。深く、濃い、夜のような色のカレー。一口食べると、スパイスの刺激の後に、どこか懐かしい温かさが喉の奥まで広がった。君が盛り付けすぎた皿を運ぼうとして、天ぷらを一枚落としそうになり、慌ててキャッチしたとき、僕たちは同時に小さく笑った。そんな、なんてことのない、誰にも記録されない瞬間が、実は一番記憶に深く刻まれるものなのだと思う。
和洋室のベッドに身を沈めると、リネンの清潔な香りと、適度な沈み込みが疲れた体を優しく迎え入れてくれた。窓の外では黒部川の流れが、低い周波数の音を立てて夜の闇に溶けている。僕たちは、お互いの存在を確かめるように、ゆっくりと目を閉じた。足りないものがあるからこそ、今のこの充足感がある。空白があるからこそ、隣にいる体温がこんなにも鮮明に伝わってくる。そういう気がしてならなかった。
夜の静寂の中で、君の指先が僕の手にそっと触れた。
- 浴衣に着替えたら、あえて何も決めずに、ホテルの廊下をゆっくり歩いてみない?
- 朝食のあと、川の音だけを聴きながら、もう少しだけここに居よう。