真夜中の空腹と、不毛なじゃんけん
指先が白くなるほどの冷気が、厚手のコートの隙間から容赦なく入り込んでくる。一月の熊本の夜は、空気が薄いガラス板のように鋭く、呼吸をするたびに肺の奥がちりりと鳴るような感覚があった。初詣の帰り道、私たちは誰がコンビニに買い出しに行くかで、十分ほど真剣に、そして不毛な議論を戦わせた。結局、じゃんけんで負けた者が、重いコンビニ袋を両手に下げて戻ってくるという単純なルールに落ち着いた。カサカサと乾いた音を立てるビニール袋の感触と、凍えた指で握りしめた温かいお茶のボトルの熱。その小さな温度だけが、今の私たちにとって唯一の正解であるかのように感じられた。アンドコンフィホテル熊本城ビューのロビーに足を踏み入れた瞬間、外の刺すような寒さが嘘のように消え、代わりに誰かが残していった淡い香水の香りと、静かな暖房の匂いが心地よく鼻をくすぐった。
揚げ物の香りと、心地よい倦怠感
「ねえ、聞いてよ。さっきの案内板には『徒歩十分』って書いてあったよね? あれ、絶対全力で走った時のタイムでしょ」
ベッドの上にどさりとコンビニ袋を放り投げながら、友人が大げさに嘆いた。私たちは、誰が一番先に「もう歩けない」と白旗を上げるか密かに賭けていたけれど、結果的に全員が同時に限界を迎えていた。
「まあ、お城のライトアップが本当に綺麗だったし、それでチャラじゃない?」
「チャラになるか! 足の指の感覚がもう完全になくなってるもん」
そう言いながらも、彼女は手早く地元の馬刺し味のスナック菓子を開封した。部屋の中は、外の静寂とは対照的に、賑やかな笑い声と揚げ物の香ばしい匂いで満たされていく。ふと気づくと、私たちは深く柔らかいマットレスに身を沈めていた。このベッドは驚くほど身体を包み込んでくれる。まるで、今日一日中歩き回った疲れを、誰かが丁寧に集めて吸い取ってくれているような感覚だ。トイレまで歩く数歩の距離さえも、今は果てしない旅路のように感じられるほど、心地よい倦怠感に浸っていた。
「ていうか、この部屋、窓からお城が見えるね。わざわざ屋上城見テラスまで行かなくても十分楽しめるじゃん」
「あ、本当だ。闇の中に浮かび上がってて、なんだか幻想的」
「幻想的っていうか、ただ光ってるだけじゃない?」
そんなくだらないやり取りをしながら、私たちはコンビニで買った温かい惣菜を口に運んだ。口の中に広がる濃いめの味付けが、冷え切った身体の芯をゆっくりと溶かしていく。誰かが冗談を言い、誰かがそれに全力で突っ込む。そんな、なんてことのない時間が、この旅で一番贅沢なパーツになるのかもしれないな、という気がした。
静寂に溶ける、黄金色の残像
お菓子も飲み物も尽き、部屋の中に心地よい静寂が戻ってきた。さっきまでの騒がしさが嘘のように、今はただ、遠くで聞こえる市電通町筋を走る市電の走行音だけが、低い周波数となって部屋に染み込んでいる。窓の外では、熊本城のライトアップが夜の闇を切り裂いて、静かに、けれど強くそこに在っていた。ふと目を閉じると、瞼の裏に黄金色の光の輪が残像として焼き付いている。それはまるで、今日という日の記憶が、視覚的な形となって身体に刻まれたかのようだった。
私たちはもう、言葉を交わす必要はなかった。ただ、同じ空間で、同じ光を眺め、同じ温度の空気を吸っている。その事実だけで十分だった。完璧なプランなんていらない。むしろ、道に迷ったり、歩きすぎて疲れたり、誰かが文句を言ったりすることこそが、旅というものの正体なのだろう。暗闇に浮かび上がる城のシルエットが、ゆっくりと視界から消えていく。けれど、心地よいベッドの感触と、友人の穏やかな寝息だけが、確かな手触りを持ってそこに残っていた。
窓ガラスに触れた指先が、ほんの少しだけ温かかった。
- 地元のコンビニで買える「馬刺し味」のおつまみ。お酒との相性が抜群です。
- 熊本城のライトアップを眺めながら、温かい地元のほうじ茶をゆっくりと飲む時間。