坂道を下りきった場所で、みんなで立ち止まって見上げた空
坂道を下る途中、重いリュックのストラップが肩に食い込む。8月の夕方の空気は、高原とはいえ、歩くと少し汗ばむ温度だ。下の子が「ねえ、まだ着かないの?」と私のシャツの裾を引っ張り、上の子は「私は全然疲れてないよ」と、わざと大きな歩幅で歩いてみせる。そんな凸凹な足取りの先に、ようやく見えてきたのが「草津温泉 源泉一乃湯」の入り口だった。暖簾をくぐると、外の暑さが嘘のように、すっと落ち着いた空気が肌を撫でる。迷路のように入り組んだ館内には、エレベーターがない。4階の部屋へ向かう階段を、子供たちは冒険でも始めるかのように、一段ずつ勢いよく上っていく。その小さな後ろ姿を見送りながら、ふと窓の外に目をやると、古いコンクリートの割れ目から、誰に頼まれるでもなく、ひっそりと青いシダが葉を広げていた。その小さな葉の裏側で、目に見えない胞子が静かに次の季節を待っている。そんな、ゆっくりとした、でも確実な変化の気配が、この古い建物全体に、あるいは私たちのこの旅そのものに、静かに満ちているような気がした。
遠くから聞こえる太鼓の音と、畳の上を転がるミノムシの羽音
夕食を終えて部屋に戻ると、窓の外からかすかに、ドン、ドン、と太鼓の音が響いてきた。湯畑の周りで開かれている、夏祭りの盆踊りの音だ。「あ、お祭りの音がする」と上の子が窓辺に駆け寄り、網戸にぴったりと額をくっつける。その横で、下の子は配られた子供用の色浴衣をどうしても自分で着たいと言い張り、帯を身体にぐるぐると巻きつけていた。結果として、彼は自力で身動きが取れなくなり、畳の上をごろごろと転がりながら「ミノムシになった!」と叫んだ。それを見た上の子が、窓辺から振り返り、きわめて真剣な表情で「いや、それはミノムシじゃなくてツチノコだよ」と訂正した。その瞬間、部屋の中に妙に真面目な沈黙が流れ、それから、私たち夫婦を含めた全員が同時に吹き出してしまった。お湯が沸くミニキッチンのコトコトという小さな音と、子供たちの笑い声、そして遠いお祭りの太鼓の音が、部屋の空気の中で心地よく混ざり合い、ひとつの新しい和音を作っているようだった。
足裏から伝わる、まろやかな熱と木肌の優しいざらつき
宿の1階にある「足湯テラス」に、みんなで裸足になって腰を下ろしてみる。8月の夜風は、草津の標高のおかげで、驚くほどひんやりとしていて気持ちがいい。昼間の街歩きで少し火照った足先を、静かに湯の中に沈めていく。「あつっ、でも気持ちいい」と、子供たちが同時に声をあげた。湯畑から引かれたという源泉は、驚くほど柔らかく、肌にまとわりつくような不思議な質感を持っている。下の子は、お湯の温かさに驚きながらも、足湯の縁にある、お湯に磨かれて丸くなった木肌を、人差し指で何度もなぞっていた。少しざらざらとして、でもどこか人肌のように温かいその感触が気に入ったのだろう。上の子は、お湯の中で自分の足をバタバタと動かし、水面に映る街灯の光が不規則に揺れるのを、じっと見つめていた。ただそれだけの、何でもない時間が、私たちの足の裏から、身体の奥深くまで、ゆっくりと染み込んでいくのを感じていた。
湯気の中で分け合った、少し酸っぱくて青い夏の味
部屋には小さなキッチンが付いている。私たちは、来る途中の直売所で見つけた、少し形の不揃いなミニトマトを、部屋の流しで冷たい水を使って洗った。丸ごと口に放り込むと、パチンと皮が弾けて、口いっぱいに青臭くて、でも驚くほど甘い汁が広がった。「これ、お砂糖入ってる?」と、普段は生野菜を頑なに拒む下の子が、目を丸くして聞いてくる。上の子も「私が一番大きいの食べる」と手を伸ばし、結局、あっという間にお皿は空っぽになった。ラウンジでいただいた無料のハーフビュッフェの、驚くほど柔らかいチキンのトマト煮も美味しかったけれど、この、部屋の片隅で家族みんなで分け合って食べた、冷たいトマトの味は、なぜか特別に記憶に残るような気がする。豪華なごちそうではなくても、ただ同じ机を囲んで、同じ冷たさを分け合うこと。それだけで、旅の食卓は十分に満たされるのだと、子供たちの赤い口元を見ながら思った。
髪の毛に残った、あの少しツンとする温かい記憶の匂い
「草津温泉 源泉一乃湯」の貸切風呂の扉を開けた瞬間、鼻腔をくすぐったのは、あの独特な硫黄の香りだった。それは、温泉街全体を包み込んでいる匂いでもあるけれど、このプライベートな空間の中では、より濃密に、私たちを包み込んでくれる。お風呂から上がって、みんなで部屋の布団に寝転がっていると、ふとした瞬間に、お互いの髪の毛から同じ匂いが漂ってくることに気づく。「なんか、みんな同じ温泉の匂いがするね」と上の子が私の髪に鼻を近づけて笑う。窓の外からは、夜空に上がる花火のかすかな火薬の香りが、涼しい風に乗って部屋に入り込んできた。硫黄の匂いと、花火の煙の匂い。そのふたつが混ざり合った、8月の草津だけの特別な香りは、きっとこの先、何年経っても、この夏の夜のドタバタとした温かさと一緒に、私たちの記憶の底に残り続けるのだろう。
朝の光が差し込む部屋で、まだ眠っている子供たちの寝息を聞きながら、もう一度あの温かいお湯に足を浸した。
- 坂道が多い温泉街なので、荷物はできるだけコンパクトにまとめ、歩きやすい靴で訪れるのがおすすめです。
- 宿の足湯テラスは、夜だけでなく、冷たい空気の満ちる早朝の時間帯に利用するのも、静かでとても贅沢です。