← 戻る 山城山荘温泉旅館

「ここであってるのかな」

君が不安そうにスマートフォンの画面をなぞる。指先がわずかに震え、湿った風が二人の間を通り抜けた。
「たぶんね。でも、もうすぐ雨が降りそう」
空は重い灰色に塗りつぶされ、五月の苗栗特有の、肌にまとわりつくような濃密な湿気が肺の奥まで満たしていく。
「いいよ、迷っても」
そう言って笑った君の肩が、冷たい予感に小さく縮こまる。正解のない道をゆっくり歩くことが、今の私たちには心地よかった。

沈み込む床と、ほどけていく心

苗栗 山城山莊溫泉旅館の部屋に足を踏み入れたとき、最初に意識したのは足裏に伝わる微かな揺らぎだった。古い木造の床が、体重をかけるたびにわずかに、本当にわずかに沈み込む。それは老朽化というよりも、長い年月を経て空間が呼吸しているような、心地よい「遊び」だった。完璧に平らな日常から切り離され、少しだけ不自由な場所に身を置くことで、張り詰めていた私の神経がゆっくりとほどけていく。完璧な場所よりも、少しだけ不完全な場所の方が、人は素直になれるのかもしれない。

部屋の専用浴槽に、滑らかな「美人湯」を溜める。お湯に浸かった瞬間、肌を包み込むとろみのある質感が、体温をゆっくりと書き換えていく。強い水圧のSPA水柱が凝り固まった肩を叩き、深い脱力感へと誘う。君の肌が湯気に濡れて白く、柔らかく見える。私たちは、言葉を重ねるよりも、ただ同じ温度の液体に身を任せることを選んだ。ふと思い出して笑ったのは、お湯の温度調節に二人で五分も格闘したことだ。結局、最初から最適だったことに気づいたとき、君は呆れたように、けれど心から楽しそうに笑っていた。そんな取るに足る小さな失敗こそが、この旅の本当の価値なのだと思う。

窓の外では雨が降り始め、山あいの緑が深く色づいた。湿った土と百合の花が混ざり合った濃密な香りが、開いた窓から流れ込んでくる。夕食にいただいた地元のワンタンは、薄い皮が口の中で優しくほどけ、出汁の温かさが雨で冷えた指先まで届いた。園内に広がる静かな歩道を散策し、点在する造景芸術を眺めた時間も、記憶に深く刻まれている。ここにあるのは「ちょうどいい不完全さ」だ。その隙間に、私たちのぎこちない関係性が、パズルのピースのようにしっくりと収まっていた。

もしかしたら、私たちは完璧な答えを探しすぎていたのかもしれない。けれど、この沈み込む床や、心地よい湯気に囲まれているうちに、答えなんてなくていいのだと思えた。ただ、隣に誰かがいて、その人の静かな呼吸が聞こえる。それだけで、十分すぎるほど満たされていた。

濡れたアスファルトの匂いと、湯上がりの火照った肌が、夜の静寂に溶けていった。

  • 部屋の湯船で、あえて時計を見ずに、ただお湯の音に耳を澄ませてみて。
  • チェックアウトのあと、園内のアート作品をゆっくり巡って、雨の余韻を楽しんで。