← 戻る 山城山荘温泉旅館

「本当に、この暑さで温泉なんて正気?」

君がそう言って、車のドアを乱暴に閉めた。金属音が静まり返った山あいに鋭く響き、すぐに深い緑に吸い込まれていく。湿った土の匂いと、肌にまとわりつくような熱気。僕は答えを急がず、アスファルトから立ち上がる白い陽炎をぼんやりと眺めていた。
「わからないけど。でも、行ってみたくない?」
僕の声は、自分でも驚くほど低かった。このままだと、暑さのせいで些細なことで言い合いを始めてしまう。そんな予感がしていたから。

ほどけていく心の繊維と、白濁の静寂

苗栗 山城山莊溫泉旅館のロビーに足を踏み入れた瞬間、冷房の冷気が火照った皮膚をなで、心地よい緊張感とともに肩の力がふっと抜けた。出迎えてくれたオーナー夫妻の温厚で柔らかな微笑みが、旅の疲れを静かに溶かしていく。僕たちはどちらからともなく、客室に備え付けられた専用の浴槽へと向かった。

蛇口から溢れ出すお湯は、乳白色に濁り、どこか密やかな表情をしていた。美人湯と呼ばれるその水に指先を浸すと、ただ温かいだけではない、指の隙間に滑り込むような絹の質感が肌を包み込む。それは、都会の喧騒の中できつく巻き上げられていた心の中の繊維が、ゆっくりと、一本ずつ緩んでいく感覚に似ていた。微かに漂う温泉特有の鉱物のような香りが、意識を深いところへと誘う。

狭い浴槽の中で、僕たちは互いの距離を測り直すように静かに浸かっていた。誰が先に口を開くかという小さな緊張感。けれど、お湯の滑らかさが、そのぎこちなさを優しく溶かしていく。もともと僕たちは、平行線を歩くのが得意な二人だった。相手の歩幅に合わせようとして、かえって足並みが乱れる。そんな不器用な関係。けれど、ここではその不協和音さえも、心地よいリズムに変わっていく気がした。お湯に浸かった身体が重力から解放され、自分と相手の境界線が曖昧になっていく。

ふと、用意されていた紅棗のスイーツを口にする。ねっとりとした濃い甘さが、舌の上でゆっくりと広がり、暑い七月にあえて温かい甘みを味わうという贅沢が、胸の奥にある小さな結び目をほどいてくれた。その甘さは、幼い頃に知った記憶のような懐かしさを伴っていた。

部屋の隅でエアコンが低く唸り、外では蝉が激しく鳴いている。けれど、この壁に囲まれた空間だけは、外界から切り離された別の時間が流れていた。地図を読み間違えて到着が遅れたとき、君は呆れた顔をしていたけれど、今は隣で静かに目を閉じている。完璧な旅なんてどこにもない。ただ、こうして一緒に、お湯の温度に身を任せている時間があれば、それでいい。肌に残ったぬるい感触が、言葉よりも正直に「ここにいていい」と教えてくれていた。僕たちはただ、激しく流れる日常の中で、心地よく立ち止まる方法を探していただけなのだ。この白濁した湯の中に、僕たちの不器用な答えがひっそりと隠れていたのかもしれない。

濡れた髪から滴る水滴が、白いタイルに静かな波紋を描いていた。

  • 次にここへ来る時は、もっとゆっくり、何もしない時間を計画しようか。
  • あの紅棗の甘さを、また二人で思い出してみたいね。