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なぜ、不器用な家族はこの場所に惹かれるのか?

「ここって、博物館なの?」

次男がそう呟いたとき、私の足裏にはテラゾー(人造大理石)の床のひんやりとした感触が伝わっていた。色とりどりの小さな石が散りばめられたその床は、まるで時間が凍りついたコンフェッティのようで、歩くたびにどこか懐かしい、乾いた音が心地よく響く。新興大旅社に足を踏み入れた瞬間、私たちは「完璧な家族」でいなければならないという、見えない緊張感からふっと解放された気がした。

なぜ、不器用な家族はこの場所に惹かれるのか?

最近のホテルはどこも清潔で効率的だが、ここは違う。60年以上も前からそこに漂う空気は、少しだけ湿り気を帯び、誰かが長い時間をかけて使い込んだ古い家具の匂いがする。ロビーで迎えてくれたオーナーの話し方は穏やかで、まるでお気に入りの古いレコードを聴いているような心地よさがあった。使い込まれた木製のドアノブの重みや、廊下を歩くたびに小さく軋む床の音が、「ここでは、そのままでいいよ」と囁いている。心地よい不完全さは、時にどんな贅沢よりも人を安心させる。ここでは、子供たちが騒いでも、大人が少しだけだらしなく過ごしても、それがこの場所のリズムに溶け込んでいく。もしかすると、私たちが本当に求めていたのは、洗練されたサービスではなく、ただ「そこにいてもいい」という静かな肯定感だったのかもしれない。

子供の心を奪った、空へと開かれた「秘密の場所」とは?

次男が夢中で見上げていたのは、旅社の中央に位置する空へと突き抜けたパティオだった。外の世界と中の世界を緩やかに繋ぐその空間には、燕たちが巣を作っていた。小さな翼が激しく羽ばたく鋭い音と、高いところから降り注ぐ4月の柔らかな光の粒子。子供の目には、ここが巨大な鳥の家に見えたのかもしれない。彼は、燕の家族がどうやってここに住んでいるのかを、一時間くらい熱心に問い詰めていた。大人の私なら「自然の摂理だよ」と適当に答えていただろうけれど、ここでは一緒に空を見上げて、「どうしてだろうね」と心地よい迷宮に入る時間が許される。

階段を上がる際、オーナーが「お湯が出るまで少し時間がかかるから、温かくなってから服を脱いでね」と、いたずらっぽく笑いながら教えてくれた。その言葉に、長男が「お湯が寝てるの?」と聞き返し、家族全員でふふっと笑い合った。そんな取るに足らないやり取りが、旅の記憶に深く刻まれる。浴室の壁にある、子供の頃の家にあったようなモザイクタイルの浴槽に浸かると、ぬるま湯の温度がゆっくりと体に染み渡り、心の中の結び目が一つ、また一つと解けていくのがわかった。タイルのざらつきや、少しだけ古風な水栓の冷たい感触。それらは、効率化された現代の生活では決して味わえない、触覚を通じた記憶の断片なのだと思う。

旅路の果てに、心に深く刻まれる記憶とは何か?

旅社の外へ出ると、苗栗の街は「四月の雪」に包まれていた。桐花祭の時期、街中を白く染める桐の花びらが、春の風に乗って肩や髪にそっと降り積もる。その触感は驚くほど軽く、まるで春に優しく叩かれたような心地よさがあった。私たちはそのまま、地元で評判の「江技旧記」へ向かい、湯気を立てる熱々のワンタンを頬張った。もちもちとした皮の中から溢れ出す出汁の濃厚な旨味と、筍のほのかな甘み。その味が、冷えた体にじんわりと広がっていく。特別な贅沢ではないけれど、その一口が、この旅のすべてを肯定してくれるような気がした。

家族旅行とは、きっと目的地に辿り着くことではなく、道中で起きた小さな混乱や、予想外の発見を共有することなのだろう。新興大旅社で過ごした時間は、私たち家族という、少しだけ形が歪なパズルを、無理に合わせようとせず、そのままの形で愛でる時間だった。チェックアウトして旅社を離れるとき、振り返ると、あのシンプルなガラス扉の向こうに、私たちの不器用な笑い声が少しだけ残っているような気がした。それは、消えてなくなるのではなく、この場所の歴史の一部として、静かに積み重なっていく記憶なのだと思う。

夕暮れの街角、子供たちが繋いだ手のひらから、まだ温かい春の温度が伝わってくる。

  • 苗栗駅からの徒歩5分という立地を活かし、地図を持たずに路地裏を散歩して、古い看板や燕の巣を探してみてください。
  • 江技旧記のワンタンは必食です。特に水晶餃子の透明感と、筍の甘みが効いたタレの組み合わせは格別です。