← 戻る 黒磯温泉かんすい苑 覚楽

濡れた石畳と、少し大きすぎる浴衣

濡れた石畳と、少し大きすぎる浴衣

黒磯駅から宿へと向かうわずか10分ほどの道のりは、まるで季節がゆっくりと呼吸を整え、入れ替わるための儀式のような時間でした。3月の風はまだ刺すように冷たく、コートの襟を高く立てても、隙間から冷気が忍び寄ってきます。「まだ冬が残っているね」と誰かが呟いたそのとき、視界に黒磯温泉かんすい苑 覚楽の門が現れました。

門をくぐった瞬間、空気の密度がふわりと変わったのが分かりました。打ち水された石畳から立ち上る、ひんやりとしていて、どこか懐かしい水の匂い。足元から伝わる心地よい冷たさは、これから触れる温泉の熱を予感させ、張り詰めていた心を静かに解きほぐしてくれます。都会の喧騒を脱ぎ捨て、静謐な和の空間に身を浸す。その心地よさに、家族全員が自然と歩幅を緩めていきました。

家族での旅行というのは、ある種の繊細なチーム作戦のようなものです。誰か一人が機嫌を損ねれば作戦は脆くも崩壊し、誰かが予想外の方向に走り出せば、全員がそれに巻き込まれる。けれど、この宿の空間は、そんな家族のしっちゃかめっちゃかな騒がしさを、優しく包み込んで吸収してくれるリバーブ(残響)のような役割を果たしてくれました。子供たちの高い笑い声や、廊下を駆け抜ける足音が、歴史を刻んだ木造の廊下や静かな庭園に溶け込み、不思議と耳障りではない、柔らかな音色に変わっていく。そんな感覚がありました。

個室の食事処で、湯気が立ち上る料理を囲んでいたときのことです。子供たちがこぼしたごはんを一緒に拭き取りながら、「まあ、いいか」と笑い合えた瞬間がありました。完璧な親でいようとするのではなく、ありのままの姿でいていいのだと、空間が静かに肯定してくれている。そんな予定調和ではない時間の流れこそが、旅の本当の贅沢なのだと感じました。

家族の記憶に刻まれた、5つの手触り

打ち水された石畳:ひんやりとした水の感触、濡れた石の深い色、雨上がりのような清々しい香り。水しぶきを上げて飛び跳ねようとした末っ子が、最初にその冷たさに気づいて歓声を上げました。

子供用の浴衣:ざらりとした綿の質感、袖が長すぎて指先が見えないもどかしさ、どこか懐かしいお日様の匂い。裾を踏んでおっとっと、とよろけた長男が、その「大きすぎる心地よさ」に気づいた瞬間でした。

お風呂のプラスチック玩具:カチカチと鳴る乾いた音、視界を白く染める濃密な湯気、肌を包むぬるりとしたお湯の感触。お風呂嫌いの次男が、おもちゃの船を浮かべたとき、初めて自分から湯船に身を委ねました。

磨き上げられたスニーカー:濃厚な革の香り、鏡のように光を反射する表面、外気に触れた瞬間の心地よい緊張感。チェックアウトの際、いつの間にかピカピカになっていた自分の靴を見て、父親が一番驚いた顔をしていました。

お風呂上がりのアイス:指先に刺さる鋭い冷たさ、舌の上でゆっくりとほどける濃厚な甘み、火照った頬に触れる夜風。誰が一番早く食べ終わるか競争を始めた長女の、真っ赤な頬が冬の終わりを告げていました。

湯上がりの火照りと家族の笑い声が、淡い灯火のように心に灯り続けている。

  • 黒磯駅から宿まで、あえてゆっくり歩いてみてください。街の匂いが宿の静寂に溶け込む境界線を楽しむことができます。
  • 子供たちに浴衣を着せて、そのまま館内を散歩させてみてください。その不恰好な姿が、後で一番愛おしい記憶になります。