ロビーに足を踏み入れた瞬間、肌をなでる空気がひんやりとしていて、外の春の湿り気がふっと消えた気がした。その温度の差に、私たちはどちらからともなく小さく息を吐き出した。賀緹酒店のロビーに広がる本棚を眺めていると、古びた紙とインクが混ざり合った、どこか懐かしくて乾いた匂いが鼻をくすぐる。静寂の中に、誰かがページをめくるかすかな音が心地よく響いていた。私たちはどちらが先に本を手に取るか、あるいはどちらが先に沈黙を破るか、そんな小さな駆け引きを繰り返しながら、ゆっくりと歩いた。背表紙の並ぶ色とりどりのラインを指先でなぞると、かすかにざらついた感触が伝わってくる。ある一冊の建築の本に同時に手を伸ばし、指先が重なったとき、私たちはどちらからともなく手を離して、小さく笑い合った。そのとき、心の中で何かが小さく調律されたような、不思議な感覚があった。「今の距離感、ちょうどいいかな」と心の中で呟いたけれど、言葉にするのはまだ早すぎると感じた。私たちはまだ、お互いの心地よい周波数を合わせていく途中にいて、正解なんてどこにもないけれど、この不確かさが心地よかった。案内された休閒風客房に入ると、足の裏に触れるカーペットの柔らかな弾力が、外で歩き疲れた足首の緊張をゆっくりと解いてくれる。部屋に満ちていたのは、淡いベージュと白が調和した穏やかな空気感だった。ベッドに体を沈めたとき、シーツのパリッとした清潔な質感が肌に心地よく、ここが誰にも邪魔されない、私たちだけの小さなシェルターになった気がした。バスルームまで歩く数歩の距離さえも、今の私たちには意味があるように感じられた。窓から差し込む4月の光は柔らかく、部屋の隅に溜まった静寂さえも心地よい重さを持っていて、ただ隣に誰かがいるという事実だけが、今の私たちにとって一番確かな情報だったのかもしれない。翌朝、伝統的な趣のあるレストランで運ばれてきた虱目魚粥から立ち上がる白い湯気が、視界を柔らかくぼかしていた。スプーンで掬い上げた粥の温かさが喉を通るたびに、体の中の冷たい部分がゆっくりと溶けていくのがわかった。出汁の優しい香りが鼻に抜け、心まで解きほぐされていく。隣で鶏肉飯を頬張るあなたの口元に、小さな米粒がついているのに気づいたけれど、あえて教えずにいた。その小さな不完全さが、なんだか愛おしくて、たまらなく心地よかった。私たちはふと、同じタイミングでコーヒーに手を伸ばし、指先が軽くぶつかった。そのとき、どちらからともなくふふっと笑い声が漏れた。計画なんてほとんどなかったけれど、それでよかったのだと思う。ホテルの外に出ると、4月の台中は白い桐の花に包まれていた。風が吹くたびに、雪のように白い花びらが肩や髪に舞い降りてくる。それはまるで、春が私たちにそっと触れたような感覚だった。大坑の道を歩きながら、私たちは多くを語らなかったけれど、繋いだ手の温度が、言葉よりもずっと正確に今の気持ちを伝えてくれていた気がする。完璧な旅なんてなくていい。ただ、こうして隣にいて、同じ景色を見て、たまに歩幅がずれて、また合わせる。そんなもどかしい時間が、今の私たちには一番必要なことだったのかもしれない。戻ってきた賀緹酒店のロビーの静けさが、心地よい余韻のように私たちを包み込んでいた。もしかすると、私たちはまだお互いのことをよく知らないのかもしれないけれど、この街の白い花びらと一緒に、ゆっくりと時間をかけて、自分たちだけの心地よいリズムを見つけていけばいいのだと思う。そんな気がした。
- 拾本書堂で、あえてお互いに似合わない本を選び合って、静かに時間を共有すること。
- 4月の早朝、白い桐の花が舞う大坑の道を、あえて目的地を決めずにゆっくりと歩くこと。