「ねえ、ここ、本当にホテル?」
君が入り口で足を止めて、少しだけ不安そうに、けれど好奇心に満ちた瞳で笑った。
「みたいだね。っていうか、クラブっぽい」
僕がそう答えると、君は手元のウェルカムドリンクを小さく揺らした。金柑の甘酸っぱい香りと、舌先を心地よく刺激する炭酸の粒。視界を鮮やかに染めるネオンの赤と紫が、僕たちの輪郭を曖昧に溶かしていく。ふたりでここに泊まることを決めたとき、僕たちはまだ、お互いのちょうどいい距離感を探している途中だった。
喧騒のフィルターが暴く、静かな体温
Moxy Taichungのロビーは、心地よいノイズの海だ。ビリヤード台を囲む弾ける笑い声、心臓に低く響くベース音、そして多国籍な話し声が交差する。モダンでエッジの効いたインテリアが、旅人の高揚感をさらに煽る。けれど、その賑やかさが、かえって僕たちの間の沈黙を贅沢なものに変えてくれた。大勢の人間が放つエネルギーというフィルターを通すことで、隣にいる君の体温だけが、鮮明な輪郭を持って伝わってくる。
部屋に入り、ドアを閉めた瞬間に世界から音が消えた。裸足で踏んだタイルのひんやりとした感触が、足裏からゆっくりと頭まで駆け上がる。機能的に設計された空間は決して広くはないけれど、それがちょうどよかった。大きな空白に身を置くと、埋められない孤独に不安になるけれど、ここなら手を伸ばせばすぐに君の肩に触れられる。リネンのパリッとした質感と、少し硬めのマットレスに身体を沈めると、身体の輪郭が正確に捉えられ、自分が今ここに存在していることが、静かに腑に落ちる感覚があった。
窓の外には、四月の台中が広がっている。二十四度の、ぬるま湯のような湿度を帯びた空気。遠くで聞こえる都市鉄道の走行音が、心地よいリズムとなって部屋に流れ込んでくる。ふと思い立って外に出ると、街のあちこちで桐の花が白く咲き誇っていた。風が吹くたびに、雪のような花びらが肩にふわりと舞い降りる。それは、春が僕たちの背中を軽く叩いたような、密やかな合図に感じられた。
夜、最上階のバーへ上がった。夜景を眺めながら、結露した冷たいグラスを指先で転がす。カクテルのフルーティーな香りが鼻腔をくすぐり、夜風が髪を揺らす。遠くの街灯りが水彩画のようにぼやけて見える。僕たちは多くを語らなかったけれど、同じ方向を見ているだけで、心拍数がゆっくりと同期していくのがわかった。完璧な関係なんてないし、僕たちはきっとこれからも、何度もリズムを外すだろう。でも、このネオンの光と白い花びらが混ざり合う夜に、ただ一緒にいられたこと。それだけで、十分な答えになっているのかもしれない。
夜風に吹かれながら、君が僕のコートの袖を小さく、けれど強く掴んだ。
- 一階のロビーで、あえて何も決めずにボードゲームを始めてみて。不器用な勝ち負けが、ふたりの距離を縮めてくれるから。
- 桐の花が舞う時間帯に、あてもなく街を歩いてみて。白い花びらが肩に乗ったとき、自然と手が触れ合うはずだから。