ソファに突っ伏して眠る子供の手に、まだテレビのリモコンが握られていた。ふと時計を見ると、午後の光がゆっくりと部屋の隅へ後退していて、気づけば数時間が空白になっていた。旅の途中で訪れる、こういう「何も計画していなかった時間」こそが、実は一番贅沢なのかもしれない。チェックインした時の、少しだけ古びているけれど手入れの行き届いたロビーの香り。それは、誰かが長い時間をかけて使い込んできた古い本のような、懐かしくも安心感のある匂いだった。中科大飯店に足を踏み入れた瞬間、張り詰めていた「親としての緊張」が、春の雪が溶けるようにふっと緩むのがわかった。
完璧な計画を捨てて、なぜこの場所へ家族を連れてきたのか
指先に触れるシーツの、ほどよくパリッとした冷たさと、身体を包み込む布団のずっしりとした重み。設計溫馨(温かみのあるデザイン)の客室に身を委ねると、外の世界の喧騒が遠のいていく。家族で旅をするとき、私たちはつい「最高の効率」や「完璧なスケジュール」という正解を探してしまうけれど、本当に必要だったのは、ただ「誰も急かされない空間」だったのかもしれない。このホテルにあるのは、過剰な装飾ではなく、日々の営みを静かに支えてくれるような、誠実な心地よさだ。子供たちが廊下を走り回る足音が、厚いカーペットに吸い込まれていく。その静謐さが、不思議と心地よかった。広い部屋の中で、子供たちが自分たちだけの「陣地」を作り上げ、おもちゃを散らかしていく。それを片付ける面倒くさささえ、ここでは心地よい生活の一部に溶け込んでいく。誰かに気を使う必要のない、自分たちだけの小さな領土を持てること。それが、疲れた親にとっても、自由を求める子供にとっても、最大の休息になるのだと思う。大人がフィットネスセンターで心身を整える間、子供たちはこの部屋という名の王国で、自由な空想に耽っていた。
子供たちの瞳を輝かせた、忘れかけていた「不便な遊び」とは
2階に降りたとき、上の子が忽然、弾かれたように駆け出した。そこにあったのは、今の時代には少し不釣り合いな、レトロなゲーム機たちが並ぶ空間だった。カチカチと鳴るボタンの硬い感触。画面の中で点滅する、少し粗いドット絵の色彩。今のゲームのような親切なガイドはないけれど、その「不親切さ」こそが、子供たちの好奇心を激しく刺激したようだ。「見て!ここ、変な音がするよ!」とはしゃぐ声が響く。隣で見ていたけれど、真剣な眼差しでコントローラーを握る小さな手の震えに、なんだか胸が熱くなった。それから、ホテルの象徴のようなメリーゴーランド。ゆっくりと回転する木馬に揺られながら、下の子が「お空まで行けるかな」と小さく呟いた。その声は、秋の気配を含んだ澄んだ風にさらさらと流れていった。彼らにとっての旅のハイライトは、有名な観光地を巡ることではなく、ホテルの2階で時間を忘れてボタンを押し続けたことや、木馬の背中で見た景色だった。大人が単なる「設備」と呼ぶものは、子供にとっては未知の世界へ繋がる「冒険の入り口」なのだと、改めて気づかされた瞬間だった。
旅を終えて、心に深く刻まれていたものは何か
ホテルを出て、すぐ隣の台中民俗公園まで歩いた。9月の台中の空気は、冷蔵庫で冷やされていたかのように清々しく、深く吸い込むと肺の隅々まで洗われるような感覚になる。道端で食べた福州意麺の、もちもちとした食感と、少し甘めの肉燥の濃厚な味。子供たちが口の周りを茶色く汚しながら、「おいしいね」と笑い合った、なんてことのない光景。ふと思い出したのは、旅の途中で起きた小さなトラブルのことだ。靴を履くのを嫌がって泣き叫んだことや、お菓子の取り合いで喧嘩をしたこと。けれど、中科大飯店での穏やかな時間が、そうしたトゲトゲした感情を、川の流れが石を丸くするように、ゆっくりと削ってくれた気がする。完璧な家族旅行なんて、きっとどこにもない。あるのは、混乱と、笑いと、そしてたまに訪れる深い静寂だけだ。でも、その不完全なパズルのピースが組み合わさったとき、それはかけがえのない「記憶」という形になる。次にここを訪れるとき、子供たちはもう少し大きくなっていて、レトロゲームよりも別の何かに夢中になっているかもしれない。それでも、この場所がくれる「ありのままでいい」という全肯定の感覚だけは、変わらずにそこにあると思う。
窓の外で、秋の風に揺れる街路樹が、ゆっくりと黄金色に色を変え始めていた。
- ホテルの2階にあるレトロゲームコーナーで、親と一緒に「昔の遊び」を体験し、世代を超えた共通の話題を作ってみてください。
- 徒歩圏内の台中民俗公園まで、早朝の澄んだ空気の中でゆっくり散歩し、子供たちの自由な歩幅に身を任せてみてください。