「これ、全部読むのに何年かかると思う?」
「さあ。でも、全部読めないからこそ、ここに来た気がするな」
三月の夜風はまだ鋭く、コートの襟を立てても首元に冷気が忍び込んでくる。小川町駅から歩いてすぐ、MANGA ART HOTEL, TOKYO の入り口に立ったとき、私たちの肩は少しだけ縮こまっていた。期待よりも、この奇妙なコンセプトへの小さな不安が勝っていたのかもしれない。けれど、自動ドアが開いた瞬間に流れ込んできたのは、心地よい暖房の熱気と、微かに混じり合った古い紙とインクの芳醇な匂いだった。
インクの根が、沈黙の隙間に張り巡らされるとき
本棚が壁になり、天井になり、世界を囲い込んでいる。その光景を見たとき、ここはホテルというより、巨大な物語の化石に飲み込まれた洞窟のように感じられた。私たちは、選書された数千冊のマンガという名の「種」が埋まった土壌に足を踏み入れたのだ。
MANGA ART ROOM の空間は、どこか懐かしい寝台列車のような静謐さに満ちていた。セミシングルの狭い空間に身を沈めると、隣にいる君の呼吸の音が、いつもよりずっと大きく、鮮明に聞こえてくる。それはまるで、ある特定の周波数を合わせて聴いているような親密な感覚だ。外の世界では、開花を待つ桜の蕾が冷たい風に耐えているけれど、この白いカーテンで仕切られた小宇宙の中だけは、時間の流れ方が違う。
私たちは、あえて多くを語らなかった。代わりに、手に取ったマンガのページをめくる乾いた音が、静寂の中に心地よいリズムを刻んでいく。指先に触れる紙のわずかなざらつき、インクが放つかすかな酸味を含んだ香り。物語を読み進めるたびに、文字と絵からなる細い根が、私たちの間にあった気まずい沈黙や、言葉にできないもどかしさを、ゆっくりと、けれど確実に侵食していくのが分かった。物語という蔓が、二人の境界線を曖昧にし、心地よい共犯関係のような温かさで包み込んでくれる。
ふとした瞬間、仰向けに寝そべって分厚い本を読んでいたとき、指の力が抜けて本がそのまま私の鼻の上にストンと落ちた。あまりに完璧なタイミングだったので、私たちは二人で、声を殺して、肩を震わせて笑った。そんな、誰にも見せることのない、取るに足らない空白の時間。それが、どんな贅沢なディナーよりも、今の私たちには必要だったのかもしれない。
次第に、現実の輪郭がぼやけていく。仕事の締め切りや、誰かに期待される役割、明日への不安。そんなものが、インクの海に溶けて消えていく感覚。これが、ここでいう「漫画脳」なのだろうか。ただ物語に溺れ、思考を停止させ、ただそこに存在すること。不完全なまま、飾らないままで、ここにいていいのだという感覚が、心地よい重みとなって体に馴染んでいった。
私たちは、お互いの視線が交わる回数が減ったことに気づいた。けれど、それは距離ができたということではなく、同じ夢を共有しているからこそ、あえて見る必要がなくなったということなのだろう。隣で静かにページをめくる君の指先の動きが、今の私には何よりも雄弁な言葉に聞こえていた。
カーテンの隙間から漏れる淡い光が、私たちの間に心地よい影を落としていた。
- どちらが先に読み終えるか、小さな賭けをしてみるのもいいかもしれない。
- チェックアウト後、神保町の古書店街で、お互いに似合いそうな一冊を探し合ってみて。