浴衣の生地が肌に触れるときの、あの少し硬くて乾いた感触から、私たちの静かな旅は始まった。帯を締めようと指先がふと触れ合った瞬間、どちらが先に手を引いたのか分からないまま、心地よい沈黙が流れる。私たちはまだ、お互いの心の歩幅を測りかねている、潮が満ちるのを待つ海岸のような関係だった。シーサイドホテル美松大江亭の廊下を歩けば、裸足に触れる床のひんやりとした温度が、七月の湿った熱気をゆっくりと追い出してくれる。遠くで聞こえる水の流れる音が、心地よいリズムとなって意識を深いところへと誘っていた。屋上露天風呂に身を委ねると、まず肌を刺すような源泉の熱さに驚き、その直後に頬を撫でる夜風の冷たさが、鮮やかなコントラストを描き出す。立ち上る湯気の向こう側で、別府湾は深い紺色のインクをぶちまけたように暗く、どこまでが海でどこからが夜空なのか、その境界線が曖昧に溶け合っていた。硫黄の香りがかすかに混じる夜気の中で、私たちは言葉を失い、ただ寄せては返す波の音に耳を澄ませていた。ふと夜空に大きな光の輪が広がった。花火だ。視界が真っ白に染まり、数秒の空白を経て、腹の底に響くような重い音が届く。この光と音のあいだにあるわずかなラグに、私たちの関係が似ている気がした。「綺麗だね」と小さく呟いた私の声は、夜風にさらわれて消えてしまったけれど、隣にいるあなたの肩がわずかに震えたのが分かった。相手が何を考えているのか、どのタイミングで言葉を投げかければいいのか。正解はいつも少し遅れてやってくる。けれど、その空白の時間こそが、実は一番贅沢なものだったのかもしれない。互いの呼吸が重なるのを待つ、あの心地よい緊張感。露天風呂付和室に戻ると、い草の香りが肺の奥まで入り込み、心地よい重みとなって体に馴染んでいった。窓から枕元までの距離を測りながら、私たちはどちらからともなく、ただ隣に座った。何も話さなくても、隣に誰かがいるという体温だけが、そこにある。その静寂は、海の下に沈む深い静けさに似ていて、私たちの心をゆっくりと凪の状態へと導いてくれた。翌朝、朝食でいただいた地獄蒸しのとうもろこしは、驚くほど甘くて、立ち上る白い湯気が鼻先をくすぐった。口の中に広がる熱い甘みと、窓の外に広がる静かな海。私たちは、完璧に分かり合える必要なんてないのかもしれない。ただ、同じ温度のものを食べ、同じ色の景色を眺めていれば、それで十分な気がする。もしかすると、私たちはこれからも、光と音のズレを楽しみながら歩いていくのだろう。そんな不器用なリズムこそが、私たちにとっての心地よさなのだと思う。チェックアウトのとき、エレベーターのボタンを押す指先が少しだけ震えていたけれど、それは不安ではなく、心地よい余韻のようなものだった。あなたは、そのままのあなたでここにいていい。そして、私たちが感じているこの不確かさは、きっと大切にすべき宝物だ。そう確信しながら、私たちは別府の街へと降りていった。最後に見上げた空は、透き通るような淡い青に染まり、新しい季節の始まりを告げていた。
- 夜明け前の屋上露天風呂で、海の色が紺色から淡いグレーに変わる瞬間を静かに眺めてみる。
- 浴衣の裾を少しだけ気にしながら、別府湾の潮風が混じる夜の空気を二人でゆっくりと吸い込む。