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午前二時の畳と、コンビニ袋の音

午前二時の畳と、コンビニ袋の音

誰が食べたいなんて言ったっけ

指先に触れる夜風が、少しだけ湿っていた。4月の別府は、どこを歩いてもかすかに硫黄の匂いが混じっている。それがこの街の呼吸のような気がして、なんだか落ち着かないけれど、心地よい。ホテルニューツルタの重厚なドアを押し開けて外に出たとき、僕たちは誰が言い出したかもわからないまま、「何か食べない?」という結論に達していた。コンビニまで歩く8分間の道すがら、街灯のオレンジ色が濡れた路面に反射して、まるで誰かがこぼした絵具のように広がっている。ビニール袋が風に煽られてガサガサと鳴る音が、静まり返った北浜の夜に妙に大きく響いていた。僕たちは、明日になればまたそれぞれの「正しい場所」に戻らなければならないことを知っていたけれど、今はただ、口の中を甘くする何かが必要だった。結局、カゴに入れたのは、地元の銘菓と、どうでもいいくらいの量のおつまみ。そんな些細な買い出しが、この旅で一番重要なミッションだったのかもしれない。


咀嚼音と、答えのない未来について

「ねえ、ぶっちゃけ新生活、不安じゃない? 僕、初日のパスワード設定で詰まって、そのまま帰りたいと思ってるんだけど」

畳の上に直接座り込み、ポテトチップスの袋を乱暴に開けた誰かが、ふっと笑いながら言った。プレミアム和モダンという名前の部屋は、僕たちの騒がしさを優しく飲み込んでくれる十分な広さがある。そこに転がったお菓子の袋と、飲みかけの缶コーヒー。誰がどのお菓子を食べているのかも分からないまま、会話だけが激しく行き交う。

「いや、お前は絶対詰まるよ。っていうか、その不安を今ここで共有してどうすんの。せっかくの別府なんだから、温泉の成分で脳みそ洗ってこいよ」

「洗いたいけど、成分が強すぎて記憶まで消えたら困るし」

「言い訳の天才かよ」

そんなくだらないやり取りが、部屋の中で心地よいリバーブのように反響している。笑い声が壁に当たり、天井に跳ね返り、ゆっくりと減衰していく。その音の尾っぽを追いかけているうちに、なんだか不思議と、明日への恐怖がただの「背景音」に変わっていく気がした。途中で誰かが冷たいペットボトルを足に落として「冷たっ!」と叫び、全員で大爆笑した。その瞬間、僕たちは間違いなく、同じ周波数で振動していたと思う。正解なんてどこにもないし、誰も答えを持っていない。でも、この部屋で一緒にくだらないことを言い合っているという事実だけが、今の僕たちにとって唯一の確かな手触りだった。


お腹がいっぱいになった後の、静かな空白

最後の一片のチップスが消え、部屋にふっと静寂が戻ってきた。でも、それは寂しい沈黙ではなく、心地よい飽和状態のような静けさだ。誰かが小さくあくびをし、畳に体を預ける。100年以上前からここにあり、数え切れないほどの旅人が訪れては去っていったこの宿の記憶が、僕たちの軽い笑い声の下で静かに脈打っている気がする。外からは、遠くで車の走る音が聞こえ、時折、夜風が窓枠を小さく揺らしていた。僕たちはもう、言葉を必要としなかった。ただ、同じ空間にいて、同じ温度の空気を吸っている。その空白にこそ、本当の意味での繋がりがあるのかもしれない。空っぽになった袋が、誰かの足に当たってカサリと鳴った。その小さな音が、今の僕たちにはどんな音楽よりも贅沢に聞こえた。明日になれば、また違う顔をして社会という波に揉まれることになるだろう。けれど、この夜の残響だけは、ずっと皮膚のどこかに張り付いて、僕たちを支えてくれる気がする。ゆっくりと目を閉じると、別府の街が深い青色に溶けていくのが分かった。


頬に触れる布団の感触が、驚くほど柔らかかった。
  • 別府のコンビニで買える、地元産の栗やさつまいもを使った甘いお菓子。夜の畳にぴったり。
  • 敢えて選ぶ、少しだけ苦い地元のクラフトビール。深い会話のいいスパイスになる。