帯の結び目と、止まらない笑い声
「ちょっと待って、あんたの襟、完全に右に寄ってるし。っていうか、それ逆じゃない?」
真夏の別府の、ねっとりとした湿気が肌にまとわりつく。糊のきいた浴衣の硬い感触に、誰かが小さく身悶えした。
「うるさいな、これでいいの。お祭りなんだから、多少の崩れは味でしょ」
「味っていうか、ただの不器用!ねえ、誰か鏡持ってきて。このままだと私たちのグループ、別府で一番ダサい集団として歴史に刻まれるわよ」
「いいじゃん。だって、今回の旅の賭け、誰が一番早く迷子になるかだったでしょ?私はもう、この浴衣を着た時点で精神的に迷子になってるから」
「誇らしげに言うな!もういい、私が直してあげるからじっとしてて」
「あ、待って。今、帯の結び目から何か出た。これ、さっき食べたお菓子のカス?」
「最悪!本当にあなたと一緒に旅行したことを後悔しそう」
「あはは、それ、さっきも言ったよね」
互いの不格好さを笑い飛ばす声が、夏の午後の熱気に溶けて、心地よく弾けていた。
喧騒を飲み込む、心地よい静寂の繭
亀の井ホテル 別府のトリプルルームに足を踏み入れた瞬間、外の蒸し暑い空気が遮断され、肌にまとわりついていた湿気がゆっくりと剥がれ落ちていく。エアコンが発する低いBフラットの唸り声が、心地よい静寂のベースラインとなり、部屋全体を包み込んでいた。三つのベッドが等間隔に並ぶ空間。その間を歩くたび、足裏に伝わる厚手の絨毯が、街の喧騒を丁寧に飲み込んでいく感覚がある。JR別府駅からわずか5分という近さでありながら、ここだけは外界から切り離された聖域のようだ。
窓の外には別府の街並みがパノラマのように広がり、夕暮れの空が鮮やかなオレンジから深い紺色へと溶け込んでいく。室内の柔らかな電球色の光が、旅の疲れを優しく解きほぐし、誰のものか分からない靴下が転がっている乱雑ささえも、親密な信頼の証のように感じられた。洋風のインテリアが醸し出すどこか懐かしい旅情と、現代的な友人同士の遠慮のない空気が混ざり合い、心地よい温度感となって私たちを包み込んでいた。バスルームのタイルのひんやりとした感触が、火照った思考をリセットし、ここが自分たちの拠点であることを改めて教えてくれる。この空間には、誰かが正解を提示する必要なんてない。ただ、適当に脱ぎ捨てられた荷物と、とりとめもない会話があれば十分だった。
ぬるくなったお茶と、夜の独白
「……ねえ、やっぱり来てよかったな」
湯上がりの火照った肌に、冷房の涼風が心地よく触れる。しんと静まり返った部屋に、湯呑みから立ち上るほうじ茶の香ばしい香りが漂っていた。
「急に何。さっきまで帯のことで喧嘩してたのに」
「いいじゃん。温泉に浸かって、全部どうでもよくなっただけ。あのお湯の温度、ちょうどよかったし」
「確かに。あそこまで深く浸かってると、自分がどこの誰だか分からなくなる感じがするよね」
「というか、さっきのマンガコーナーで読みすぎた。時間があっという間だったよ」
「あはは。まあ、いいか。明日もきっと、誰かが何かを忘れて、誰かがそれに怒るんだろうな」
「それこそが、私たちの正解ってことだよね」
昼間の喧騒が嘘のように、声のトーンは低く、けれど言葉のひとつひとつには、普段は口にしない体温のような誠実さが宿っていた。互いの存在を当たり前だと思っていたけれど、この静寂の中で改めて、心地よい連帯感に包まれていた。窓の外に広がる街の灯りが、まるで宝石を散りばめたように瞬いている。
窓の外で、遠くの花火が音もなく、夜空に一輪の華を咲かせた。
- ホテル3階のマンガコーナーや駄菓子コーナーで、童心に帰って時間を忘れること
- 朝食後の心地よい余韻に浸りながら、別府公園の深い緑の中をゆっくり散歩すること