← 戻る ラビスタ函館ベイANNEX

大きすぎるスリッパが、廊下で小さく鳴っていた

冷たいタイルの感触。それから、自分の足よりもずっと大きな白いスリッパが、床を擦る「シュッ、シュッ」という乾いた音。下の子がそれを履いて、迷子のような足取りで廊下を歩いている。隣では、上の子が浴衣の帯がうまく結べないことに、なんだか深刻な顔で悩んでいた。「どうして、大人の人はこんなに簡単に結べるの?」という小さな呟き。私たちは、優雅な家族旅行を計画していたはずだったけれど、実際には、誰がどこに靴下を脱ぎ捨てたかを探すという「チーム作戦」のような時間に追われていた。でも、その乱雑さが、この場所の静謐な空気と混ざり合って、不思議と心地よく感じられた。

賑やかな家族を、あえてこの静謐な空間に連れてきたのはなぜだったか

重厚な木の家具が放つ、落ち着いた芳香。深い色合いのカーテンが遮る外の世界。ラビスタ函館ベイANNEXの客室に足を踏み入れたとき、最初に感じたのは、ここが「大人のための聖域」であるという心地よい緊張感だった。しかし、54平米というゆとりある和洋室の広さを知ったとき、その緊張感はゆっくりと、深い安心感に溶けていった。子供たちが走り回っても、誰かの肩にぶつかることなく、それぞれの居場所を確保できる。和洋折衷様式がもたらす、どこか懐かしくて新しい空気感。そこには、家族という小さな集団が、お互いの距離感を保ちながらも、緩やかに繋がっていられる、ちょうどいい「心の隙間」があった。

もしかしたら、私たちは単なる「静寂」を求めてきたのではなく、「静寂の中で、自分たちの賑やかさを客観的に眺める時間」が欲しかったのかもしれない。ふかふかのベッドにダイブする子供たちの笑い声が、クラシカルな壁に反射して、柔らかい音になって返ってくる。そのリズムを聴いているだけで、日常で張り詰めていた心の糸が、ゆっくりと解けていくのがわかった。完璧に整えられた上質な空間に、あえて不揃いな家族の時間が入り込む。そのコントラストこそが、この旅の正体であり、私たちにとっての贅沢だったのだ。

子供たちが一番心を奪われたのは、どんな瞬間だったか

それは、天然温泉の、肌にまとわりつくような柔らかい質感に触れた瞬間だったのかもしれない。湯船に浸かった瞬間、ふっと肩の力が抜けた上の子が「なんだか、体が溶けちゃいそう」と小さく呟いた。最初は「お風呂なんてどこも同じ」とクールに振る舞っていたけれど、その表情は完全に弛緩していた。下の子は、水面に浮かぶ小さな泡を追いかけることに全力を注ぎ、パシャパシャと水飛沫を上げている。大人が「贅沢な時間」と定義するものを、子供たちはただ「面白い体験」として全身で受け止めている。その純粋な視点の違いが、大人である私にとって、何よりも新鮮な発見だった。

それから、浴衣。慣れない布に包まれて、裾を何度も踏んづけては「あはは」と笑い合う。帯を締め直すたびに、子供たちの表情が少しだけ大人びて見え、同時に、その幼さが際立って見えた。7月の函館の夜風は、海からの湿り気を帯びていて、火照った肌を撫でる感覚がたまらなく心地よい。浴衣姿で外に出たとき、街のあちこちで七夕の飾りが揺れていた。色とりどりの短冊が夜風に舞う様子を、子供たちは時間を忘れてじっと見つめていた。彼らにとって、この風景はきっと、後で思い出すときの「色の記憶」として深く刻まれるのだろう。特別な何かを教えようとするのではなく、ただ一緒に、その色の揺らぎを眺めていた。それだけで十分だったという気がする。

旅を終えて、心に何が残ったか

JR函館駅まで歩く、10分ほどの道のり。7月の朝の空気は、潮の香りと、どこか遠くで準備が始まったお祭りの気配が混ざり合っていた。子供たちは、昨夜の心地よい疲れで少しだけ歩幅が狭くなっている。でも、その小さな手は、しっかりと私たちの手を握っていた。その手の温もりこそが、この旅の最大の収穫だったのかもしれない。

旅の記憶というのは、きっと豪華な食事や有名な景色よりも、こういう「何でもない、けれど心地よかった皮膚感覚」に宿るものだと思う。ホテルの廊下で鳴っていたスリッパの音。温泉から上がった後の、火照った頬に触れた冷たい空気。そして、家族全員が同じリズムで、心地よい疲労感に包まれていたこと。私たちは、予定していた観光スポットの半分も回れなかったかもしれない。でも、それでいい。むしろ、その「空白」があったからこそ、子供たちがふと漏らした「またここに来たい」という言葉が、まっすぐに心に届いた。効率的に回る旅ではなく、あえて迷子になり、時間を浪費する旅。それが、家族というチームにとって、一番贅沢な過ごし方だったのだと、今になって気づかされる。

深い眠りに落ちた子供たちの、規則正しい寝息だけが部屋に満ちている。

  • 函館の朝市で、子供と一緒に一番大きなイカを探して、新鮮な海鮮丼を頬張ってみてほしい。
  • 温泉は、あえて早朝の誰もいない時間帯に。静まり返った空間で、家族だけの特別な時間を過ごせる。