函館駅に降り立った瞬間、潮の香りが混じった生ぬるい風が頬を撫でた。誰が一番に迷うか賭けたけれど、結果的に全員で同じ方向に間違えて歩いた。石畳を叩くスーツケースのキャスターが、不規則で騒がしいリズムを刻んでいる。7月の空気はしっとりと重く、肌にまとわりつくけれど、それが心地よくて、私たちはわざと遠回りをし続けた。
朝市のイカは、想像以上の弾力だった。噛むたびに、冷たい北の海の色が口いっぱいに広がる。誰かが「これ、もしかしてゴムじゃないよね?」と真顔で呟いた瞬間、市場の喧騒さえも心地よい笑い声に変わった。醤油の香ばしい匂いと、氷の上に並んだ海産物の鋭い冷気。あの温度差こそが、旅が始まった合図だった。
浴衣の帯との格闘は、もはやチーム戦だった。「ここ、どうやって結ぶの?」と絶望的な声が上がり、三人でかりそめ的な作戦会議を開いては、スマホの解説動画を三回巻き戻す。誰の腰が一番締まっていないか、誰が一番不格好か。そんなくだらない選手権が始まり、部屋の中は笑いと混乱でいっぱいになった。指先に残る、生地の少し硬い、けれど清潔な感触。
七夕の短冊に、真面目な願い事を書くはずだった。でも、気づけば「隣の奴がダイエットに成功しますように」とか「次回の旅行で誰が忘れ物をするか」なんて、意地悪な願いを書き始めていた。「もうこれ、旅の目的がすり替わってるよね」と笑い合いながら、色とりどりの紙が潮風に揺れるのを眺めていた。
祭りの喧騒から離れて、ラビスタ函館ベイANNEXのロビーに足を踏み入れた瞬間、世界から音が消えた。急に訪れた静寂が、厚いベルベットの毛布みたいに体を包み込む。外の熱気と、ここにあるひんやりとした空気の境界線。その温度差に、ふっと肩の力が抜け、心まで凪いでいく感覚があった。
部屋のカーペットに足を踏み入れると、指先まで深く沈み込んだ。和洋折衷の家具が醸し出す、少しだけ厳格で、でもどこか懐かしい雰囲気。天然温泉で火照った体に、リネンのパリッとした冷たい感触が心地よい。深夜、裸足で歩いた床のひんやりとした感触と、31平米の空間に吸い込まれていく私たちの騒がしい笑い声。
窓越しに聞こえる花火の低い振動。空の色が塗り替えられるたびに、部屋の白い天井に、鮮やかな光と影がゆっくりと踊っていた。大きな音は遮断されているけれど、心臓に響く鼓動のようなリズムだけが伝わってくる。贅沢っていうのは、きっとこういう「ちょうどいい距離感」のことなのだろう。
翌朝、まだ少し眠い目で、誰が一番に起きるか競争した。結果は全員敗北。でも、そのだらしない時間が、この旅で一番贅沢なひとときだった気がする。湿気で少しだけ膨らんだ木のドアを閉める、乾いた音。それが、私たちの短い夏が終わる合図だったのかもしれない。
冷えたシーツの中で、もう一度だけ深く息を吐いた。
- 朝食の海鮮丼は、迷わず全部盛りにして。本当の意味で「旅した」気分になれるから。
- 浴衣を着るなら、時間に余裕を。誰かが必ず帯でパニックになるから、その時間を楽しんで。