← 戻る 函館国際ホテル

スプーンが皿に当たる音と、オレンジ色の粒

07:30, 朝食バイキングの喧騒の中で

冷たい水のグラスがテーブルに当たる、カチッという硬い音。それに重なるように、子供たちが興奮して話し合う、少し高めの周波数の声が心地よく耳を打つ。5月の函館の朝は、まだ空気にひんやりとした芯が残っているけれど、レストランの中だけは、香ばしく焼きたての魚の香りと、旅への期待感が混ざり合って、ぬるい熱を帯びていた。窓の外にはベイエリアの穏やかな景色が広がり、潮風の香りがかすかに混じっている。

目の前には、宝石みたいに光るいくらの山がある。次男が「全部のせていい?」と目を輝かせて、スプーンで山盛りにしていくら丼を作っている。その粒が口の中で弾ける感覚は、もしかしたら、土の中でじっと耐えていた種が、ある日ふっと殻を破る瞬間に似ているのかもしれない。完璧な計画なんて、最初からなかった。老大が「あっちに行きたい」と言い張り、次男が途中で歩くのをやめる。そんな小さな摩擦があるからこそ、このオレンジ色の粒を一緒に頬張る時間が、妙に愛おしく感じられる。賑やかすぎる朝食の時間は、家族というチームが、それぞれの個性をぶつけ合いながら、ゆっくりと一つの形になっていくプロセスのようなものだ。

14:00, 部屋に戻ったときの静寂

指先に触れるカーペットの、少し厚みのある柔らかい感触。金森赤レンガ倉庫まで歩いた後の足取りは鉛のように重く、玄関からベッドまで、あと何歩あるだろうかとぼんやり考える。子供たちは、部屋に入った瞬間に、まるで電池が切れたおもちゃのように床に倒れ込んだ。外からは遠くで船の汽笛が聞こえ、港町特有のゆったりとした時間が部屋の中まで流れ込んでくる。

窓の外には、5月の新緑が鮮やかに広がっている。でも今は、その景色よりも、静まり返った部屋の中で聞こえる、子供たちの規則正しい寝息の方がずっと重要に感じる。もともと、旅行っていうのは、心地よい疲れをどこに配置するかというゲームのようなものかもしれない。広い部屋の隅に、脱ぎ捨てられた靴下がある。その乱雑さが、ここでは不思議と安心感に変わる。誰にも気を遣わず、ただそこに存在していいという感覚。それは、根が土を押し広げて、自分だけの居場所を確保していく時の、静かな力強さに似ている。私は、少し冷めたコーヒーを一口飲み、その苦味とともに、静寂の重さをゆっくりと味わっていた。

19:00, 湯煙の向こうに見える街の灯

裸足で踏んだタイルの、ひんやりとした温度。そこから、お湯に浸かった瞬間の、皮膚がじわっと緩む感覚への移行。函館国際ホテルの天然温泉展望大浴場では、5月の夜風が頬を撫でていく。お湯の温度はちょうどよく、肩まで深く浸かると、今日一日の「親としての緊張」が、温かな湯気に溶け出していくのがわかる。塩素の匂いではなく、温泉特有の柔らかな香りが鼻腔をくすぐる。

隣では、子供たちが「お湯が熱い!」と騒ぎながらも、不思議そうに水面に浮かぶ小さな泡を眺めている。大人の世界では、効率や正解ばかりを求められるけれど、ここではただ「温かい」という感覚だけで十分だ。湯気でぼやけた視界の向こうに、函館の街の灯りが点在している。それはまるで、夜の海に散らばった光の種のように見える。私たちは、この旅で何か特別な答えを見つけたわけではない。ただ、一緒に湯気に包まれて、「明日もいい天気だといいな」と呟き合った。その些細な共有こそが、記憶という植物を育てるための、一番贅沢な肥料になるのかもしれない。

22:30, 子供たちが眠りに落ちた後の時間

部屋の明かりを落とし、間接照明だけの淡いオレンジ色に包まれる。リネンのシーツが肌に触れる、さらりとした心地よい質感。隣で眠るパートナーと、小さな声で今日の出来事を振り返る。ふと、ホテルのスカイラウンジバーで一杯飲んでみればよかったかと話し合うが、今のこの静寂の方がずっと贅沢に感じられた。

「結局、あのお店に行けなかったね」

そう言って笑い合う。予定していたルートから外れ、迷い込んだ路地裏で、ふと見つけた名もなき花に子供たちが足を止めたこと。それが、ガイドブックに載っているどの景色よりも、鮮やかに記憶に残っている。不便さや、思い通りにいかないもどかしさ。そういう「欠けた部分」があるからこそ、そこに新しい感情が入り込む余地が生まれる。家族という関係性は、滑らかな円ではなく、凸凹したパズルのピースを無理やり合わせようとする、不器用な試行錯誤の連続だ。でも、その不器用さこそが、私たちを繋ぎ止めている。明日、また騒がしい朝が来る。それでも今は、この深い静寂の中で、自分たちがここにいていいのだという確信だけを抱いて、ゆっくりと目を閉じる。

窓の外で、5月の風が静かに木々を揺らしている。

  • 朝食のいくら丼を作る時は、ぜひ子供と一緒に「どれだけ高く積めるか」を競ってみてほしい。
  • 展望大浴場から見える夜景は、お湯に浸かって体が完全に緩んだタイミングで眺めるのが一番贅沢だ。