← 戻る 伊香保温泉 心に咲く花 古久家

下駄の音が重なるまで、あと少し

下駄の音が重なるまで、あと少し

石段街で誰が一番先に転ぶか、こっそり賭けていた。九月の湿った土と、古びた石の匂いが雨上がりの空気に混じって鼻をくすぐる。地図を読み間違えて同じ場所を三回も回ったけれど、誰一人転ばなかった。もしかすると、迷うこと自体がこの旅のメインイベントだったのかもしれない。



上州牛のすき焼きが、目の前の鍋で静かに音を立てている。脂が熱で溶け出し、甘辛いタレと混ざり合って、濃厚な琥珀色の流れを作る。口に入れた瞬間、肉の繊維がほどけて消えていく感覚。隣で「美味しすぎて言葉が出ない」と言いながら、猛烈な勢いで白米を口に運ぶ友人の食欲に、なんだか安心した。


「ねえ、その色、完全に歩くキャンディショップなんだけど」と、友人が私の浴衣を見て吹き出した。伊香保温泉 心に咲く花 古久家で選んだ、少し派手すぎる色浴衣。和モダンな空間に映える鮮やかな色彩に、鏡の中の自分が照れている。ここでは、誰が誰であるかよりも、どの色が一番目立つかの方が重要だという気がする。


下駄で石段を登るたびに、カラン、コロンと乾いた音が響く。心地よいはずのリズムが、次第に足の指に走る鋭い痛みへと変わっていく。でも、誰一人として「もう歩けない」とは言わなかった。みんなで同じ痛みを共有して、それをネタにして笑い合う。そんな不自由さが、かえって私たちを密接に繋いでいた。


夜、窓の外に広がるすすきの穂が、銀色の月光に照らされて静かに揺れている。ひんやりとした夜風が頬を撫で、肌が心地よく引き締まる。誰が話し始めたのか分からないけれど、いつの間にか深い話になっていた。答えなんて出ない問いを、ただ夜の静寂に流していく。空白があるからこそ、言葉がゆっくりと心に浸透していく感覚があった。


黄金の湯に身を沈めると、とろみのある温度が、心の中の強張った部分をゆっくりと溶かしていく。水面に浮かぶ小さな気泡が、表面張力に耐えきれず弾ける微かな音。日々の生活で被っていた「しっかりした大人」という薄い膜が、このお湯に溶け出して消えていく。ただの、不器用で笑い上戸な自分に戻っていく。それは、心地よい喪失だった。


おみやげ処で見つけた温泉まんじゅうを、半分こして食べた。指先に残るほんのりとした温かさと、口いっぱいに広がる上品な餡の甘さ。誰かが「これ、一人で全部食べられたかも」と冗談を言い、また笑いが起きる。そんな些細なやり取りが、どんな豪華な設備よりも贅沢に感じられたのは、きっと一緒だったからだ。


チェックアウトの時、振り返ると、そこにはまだ私たちの笑い声が澱のように溜まっている気がした。完璧なスケジュールも、洗練された振る舞いも、ここには必要なかった。ただ、お互いの格好悪さを笑い飛ばせる時間があれば、それで十分。流れる水のように、自然に、ただそこに在るだけでいいのだと思えた。

ホテルの灯りが、遠くの夜霧に静かに溶けていた。

  • 色浴衣のレンタルは必須。迷ったら一番派手な色を選んで、友達に突っ込まれてほしい。
  • 石段街を歩いた後は、迷わず黄金の湯へ。足の疲れも、心のしがらみも全部溶けてなくなるから。