「水着、忘れた」という絶望のタイミング
「ねえ、ちょっと待って。私、致命的なことを思い出した」
「何。またコンビニで限定のお菓子買い忘れたとか?」
「違う。水着……忘れた」
「はあ!?ここ、プール付きの特別室にしたじゃん!私たちがわざわざ『風林』に決めた理由、全部そこだったよね?」
「だって、9月の山梨でプールなんて、正直想定外だったし!」
「想定外なのはあんたの記憶力でしょ。もういい、私のを半分貸してあげるから」
「無理でしょ!サイズ違うし、そもそも貸し借りできるもんじゃないし!」
スーツケースのキャスターがアスファルトを叩く規則的な音が、私たちの言い争いに拍車をかける。詰め込みすぎた荷物の重さが、音の低さに変わっているのがわかる。石和温泉駅からホテル甲子園へ向かう15分間、私たちは誰が一番の責任者かを決めるまで、賑やかに、そして容赦なく互いを突き放しながら歩いた。
静寂と水音が溶け合う贅沢な隠れ家
ロビーに足を踏み入れた瞬間、外の湿った空気とは違う、凛とした静寂が肌を撫でた。スリッパに履き替えたとき、足裏に伝わるタイルのひんやりとした温度に、ようやくここに来たのだという実感が湧いてくる。私たちはまず、県内最大級だという「奥庭茶屋アルプス」へ向かった。夜の21時、不意に滝が流れ始める。その音は単なる水の落下音ではなく、空間全体を塗りつぶすような重い低音を含んでいた。水しぶきが微細な霧となって頬に触れる。その心地よい冷たさが、言い合いで火照った頭を静かに冷やしてくれる。
部屋に戻れば、そこには「露天風呂付客室風林」という名の、誇らしげな空間が待っていた。室内プールに足を浸すと、水面が天井の明かりを反射して、まるで夜の海のようにゆらゆらと揺れている。サウナに入り、肌がじりじりと熱くなる感覚に身を任せていると、思考が単純な快楽へと還元されていく。汗が流れ落ちる速度だけが、今の自分にとって唯一の重要な指標になる。ストーンスパで嗅いだエッセンシャルオイルの香りは、大地の深淵から掘り出した記憶のような、濃密で落ち着いた香りだった。窓の外には、9月の夜風に揺れるススキが白い波のように広がり、月は少しだけ傾いていて、それがなんだか計画通りにいかない私たちの旅の形に似ているなと感じた。Hotel Koshienの夜は、そうして静かに、けれど深く私たちを包み込んでいった。
深夜二時、ワインに溶かす本音
貸切露天風呂「吐竜」から上がり、浴衣の柔らかな生地が肌に触れる感覚を楽しみながら、私たちは部屋のソファに深く沈み込んでいた。地元のぶどうを使ったワインが、グラスの中で濃い紫色に揺れている。
「……まあ、水着なくても、お風呂さえあれば十分だったかもね」
「いまさら気づいた?ほんと、あんたの適応能力だけは認めるよ」
「いいじゃん。こういう『予定外』があるから、後でネタになるんだし」
「まあね。でも次は、チェックリストを共有して、相互監視体制に入ろうと思う」
「それはそれで、監獄みたいで嫌だわ」
笑いながらワインを一口飲む。ぶどうの濃厚な甘みと鮮やかな酸味が、舌の上で弾けた。その瞬間、誰かがふと、「今の私たち、最高に贅沢な時間を無駄にしてる気がしない?」と呟いた。私たちは顔を見合わせ、同時に吹き出した。何もしないこと。ただ、そこにいて、互いの不完全さを笑い合うこと。それが、この旅で一番欲しかったものだったのかもしれない。夜が深まるにつれ、会話のトーンは低くなり、けれど密度は増していく。私たちは、自分たちが持っている孤独という名の臓器を、ほんの少しだけ、この空間に預けてみた。
月明かりに照らされたススキが、銀色の波となって静かに揺れていた。
- 地元のワイナリーで、あえて一番「個性的」だと言われたワインを選んでみる。
- 夜21時の滝の放水に合わせて、あえて何も話さず、ただ水の音だけを聴いてみる。