← 戻る 定山渓第一寶亭留 翠山亭

雪の青さが、秘密の合図に見えた午後

雪の青さが、秘密の合図に見えた午後

濡れたウールの匂いと、心地よい喧騒の迷路

凍てつく空気が鼻腔を鋭く突き抜け、肺の奥まで白く染まるような感覚。札幌から定山渓へと向かうシャトルバスを降りた瞬間、子供たちが吐き出す息が小さな白い雲となって視界をあいまいにした。濡れたウールのコートから漂う、冬特有の少し重たい匂い。定山渓第一寶亭留 翠山亭のロビーに足を踏み入れると、外の刺すような寒さと、室内の柔らかな温もりが激しくぶつかり合い、肌の上で心地よい境界線を描き出す。

そこには、旅の始まりに特有の「心地よい混乱」があった。大きなスーツケースが絨毯にぶつかる鈍い音。長男が「早くお風呂に行きたい!」と叫びながらロビーを駆け抜け、次男がそれに追いつこうとして、厚手のジャケットのボタンを掛け違えている。私はその光景を眺めながら、「もしかしたら旅の正体とは、こういう予定通りにいかない時間の集積なのかもしれない」と、ふっと肩の力を抜いた。チェックインの手続きを待つ間、指先に触れるフロントの木の質感は驚くほど滑らかで、どこか懐かしい安心させる温度を持っていた。荷物を預け、部屋へ向かう廊下で、子供たちが跳ねるたびに床が小さく共鳴する。その不規則なリズムが、今の私たちにとって一番正しいテンポのように思えた。

湯気とページをめくる音、予期せぬ宝探し

この宿の白眉は、本と温泉という、一見すると相容れないものが共存する「風呂屋書店」だ。2500冊もの蔵書に囲まれ、古書の乾いた香りとほのかな硫黄の匂いが心地よく混ざり合う。次男が「ねえ、この本ってお風呂で読んでも大丈夫なの?」と不思議そうに問いかけてきたとき、私たちはみんなで笑った。本をめくる指先の乾いた音と、遠くから聞こえるお湯の流れる音が重なり、空間全体が淡い琥珀色の光に包まれている。それは、プリズムを通り抜けた光がいくつもの色に分かれるように、家族それぞれの好奇心が違う方向へ伸びていく贅沢な時間だった。

その後、私たちは地元の精肉店から届いたという至福の肉料理を味わった。口に入れた瞬間、きめ細やかな脂の甘みがじわりと広がり、冷え切った身体の芯から熱が戻ってくる。地元の菜園で育てられた野菜の、土の香りが残る濃い味わい。料理の一つひとつが、この土地の記憶を運んできているという気がする。長男が「お肉が溶けた!」と大はしゃぎし、口の周りをソースで汚している。そんな、誰に見せるつもりもないけれど、誰よりも大切にしたい瞬間がここにはあった。露天風呂に浸かれば、冬の澄んだ空気が頬を叩き、一方で身体は芯まで温められる。湯気の向こうに見える渓谷の景色は、光の屈折で輪郭がぼやけていて、まるで記憶の中の風景を眺めているみたいだった。ふと見ると、長男が浴衣をスーパーヒーローのマントのように肩にかけ、廊下を誇らしげに歩いている。その滑稽で愛おしい姿に、日常の緊張が完全に溶け出していった。

眠れる睫毛と、静寂という名の贅沢

夜の11時。嵐のような賑やかな時間が過ぎ、ようやく訪れた深い静寂。75平米の広々とした和風ベッドルームは、家族全員が横たわっても十分な余裕があるが、子供たちが眠りについた後は、その空間がさらに広く、深く感じられた。ベッドの上で、互いの体温を感じながら深く眠る子供たちの、規則正しい呼吸音だけが部屋に満ちている。そっと目を閉じると、昼間の賑やかさが残像のように瞼の裏に浮かんでいた。

私は一人、窓際に座り、外の暗闇に目を凝らした。定山渓の夜は、都会の夜とは違う。音が無いのではない。むしろ、静寂という名の音が、厚い層になって降り積もっているのだ。遠くで風が木々を揺らすざわめきがし、時折、雪がしんしんと降り積もる気配が伝わってくる。お湯に浸かって柔らかくなった肌に、冷たい夜風が触れる。その鮮やかな温度差が、自分が今ここに存在していることを、残酷なほど正確に教えてくれる。

もしかしたら、孤独というのは寂しいことではなく、自分という個体の輪郭を確かめるための大切な器官なのかもしれない。家族と一緒にいながら、ふと訪れるこの一人の時間は、明日また彼らの賑やかさを丸ごと受け入れるための、心の余白を作る作業なのだと思う。温かいお茶を一口飲み、喉を通る熱を感じながら、私はただ、この静かな時間の重みを味わっていた。何も解決しなくていい。ただ、ここにいていい。そう思えるだけで、十分だった。

記憶の温度を抱いて、日常という戦場へ

チェックアウトの朝。子供たちは不思議なことに、あんなに騒いでいたのが嘘のように、静かに名残惜しそうにしていた。「もう一回だけ、あのお肉が食べたい」と呟く次男の声を聴きながら、私はゆっくりと荷物をまとめる。パッキングをするたびに、この場所で過ごした時間が、スーツケースの中に丁寧に詰め込まれていく感覚があった。

ロビーを出て、再び冬の冷気に触れたとき、私たちは同時に深く息を吸い込んだ。肺いっぱいに広がる凍てついた空気。けれど、身体の奥にはまだ、定山渓第一寶亭留 翠山亭で触れた温もりが、小さな灯火のように残っている。私たちはバラバラな方向を向きながら、けれどしっかりと手を繋いで、再び日常という名の戦場へと戻っていく。けれど、心の中には、あのプリズムのような光の記憶がある。またいつか、この温度に戻ってこられる。そう信じられるだけで、これからの冬を乗り切れる気がした。

  • 「風呂屋書店」で、あえて子供と一緒に「直感で」一冊の本を選んでみてください。旅が終わった後、その本を開くたびに、定山渓の湯気の匂いが蘇るはずです。
  • 地元の精肉店直送のお肉料理は、ぜひゆっくりと時間をかけて。素材の鮮度がもたらす「本物の味」が、家族の会話を自然に弾ませてくれます。