深夜の空腹という名の、抗えない誘惑
浴衣の袖が手首に触れるたび、少しだけざらついた生地の感触が心地よく、肌に馴染んでいく。指先にはまだ、草津の温泉特有の濃厚な硫黄の香りが薄くまとわりついていた。5月の夜気は驚くほど冷たく、新緑の濃い匂いと、湯畑から絶え間なく立ち上る白い蒸気が混ざり合い、肺の奥まで洗われるような清冽な空気が流れている。私たちは、誰が一番先に「お腹が空いた」と口にするかという、大人のすることではない、けれど真剣な賭けをしていた。結果、一番に白旗を上げたのは、グループの中で一番少食だと思っていたあいつだった。私たちは弾けるような笑い声を上げながら、夜の静寂に包まれた町を歩いてコンビニまで向かい、ビニール袋がはちきれそうになるまで、ジャンクな買い物を詰め込んだ。戻ってきた草津温泉 きむらやの部屋に足を踏み入れたとき、畳のい草の芳しい香りと、外のひんやりとした空気の境界線で、私たちは同時にまた笑い出した。コンビニ袋がガサガサと鳴る乾いた音が、静かな廊下に小さく、けれど賑やかに響いていた。
畳の上に散らばった、正解のない会話
「ねえ、今回の旅の計画、結局誰が立てたっけ?」
誰かがポテトチップスの袋を乱暴に開け、パチリと鋭い音が部屋に響いた。メインの照明を落とし、部屋の隅にある間接照明のオレンジ色の光だけが、私たちの輪郭をぼんやりと、けれど温かく浮かび上がらせている。
「俺だけど? まあ、大筋では完璧なプランだったと思うけどさ」
「完璧に迷子になったよね。白旗源泉まで歩いて行くって決めたのはいいけど、なんであんなに遠回りしたの。正直、途中で遭難して山に住むことになったかと思ったし」
「あれは探索だよ。冒険っていうかさ。それに、あの迷った道にあった藤の花、信じられないくらい綺麗だったじゃない。あんな幻想的な景色に出会えたのは、俺が道を間違えたおかげなんだよ」
「言い訳がすぎる。でも、まあ、結果的に正解だったのかもしれないね」
もぐもぐと口を動かしながら、あいつが満足げに肩をすくめる。コンビニのホットスナックから立ち上る白い湯気が、部屋の温度をわずかに上げ、食欲をさらに刺激した。誰かが飲み物をこぼして「あー!」と騒ぎ、慌ててティッシュで拭き取る。そんなくだらないやり取りが、心地よいリズムとなって部屋を満たしていく。私たちは、予定していた観光スポットの半分も回れなかったし、地図を読む力も絶望的に欠けていた。けれど、その不完全さが、今の私たちにはちょうどいい。正解を追い求める効率的な旅より、間違いを笑い合えるこの時間の方が、ずっと贅沢で、かけがえのないものに感じられた。
湯煙に溶けていく、心地よい静寂
食べ終えた後の静寂は、まるで湯畑から立ち上る白い霧が、ゆっくりと、けれど確実に部屋の隅まで満たしていくみたいだ。お腹が満たされ、温泉で芯まで緩んだ体が、畳の柔らかい感触に深く沈み込んでいく。部屋に配された浅間石の静謐な気配が、さっきまでの騒がしさを優しく包み込み、今はただ、誰かが寝返りを打つ衣擦れの音だけが心地よく聞こえる。言葉にしなくても、ここに一緒にいられることが、今の私たちにとっての唯一の正解なのだろう。無理に何かを共有しようとしなくていい。ただ、同じ温度の空気を吸い、同じ静けさを分かち合う。そういう絶妙な距離感が、草津温泉 きむらやの穏やかな空気に自然に溶け込んでいた。5月の夜風が窓をかすかに揺らし、遠くで誰かが歩く足音が微かに聞こえる。私たちは、明日にはまたそれぞれの日常という異なる周波数に戻るけれど、この夜の、少しだけ乱れた空気感だけは、ずっと記憶の底に温かく沈んでいてくれる気がした。
窓の外では、夜風に揺れる新緑が、静かに呼吸をしていた。
- 地元のコンビニで買える、草津ならではのご当地珍味や限定のおつまみセット。
- 冷えた夜風に当たった後に、心まで温まるコンビニの熱々おでん。