「ねえ、あのお城、まだ見えてる?」
君が少しだけ背伸びをして、窓の隙間から外を覗き込んだ。
「うん、たぶん。雲に隠れてるけど」
僕はルームキーをテーブルに置く。カチッ、という小さな金属音が、静まり返った部屋に心地よく響いた。
「本当かな。もしかして、私たちの都合よくそこにいてくれてるだけじゃない?」
君は小さく笑って、そのままベッドに飛び込んだ。シモンズのマットレスが、ふわりと君の体重を吸い込む。その沈み込みに合わせて、僕の心拍数も少しだけゆっくりになった気がした。
「心地いい。なんか、ここにいてもいいって言われてるみたい」
僕たちはまだ、お互いのちょうどいい距離感を測り合っている最中だった。
石垣の静寂と、溶け合う体温
5月の熊本は、空気がしっとりと湿り気を帯びていて、肌に触れる風が慈しむように柔らかい。まるで、誰かがそっと肩を叩いてくれたときのような、そんな温度だ。アンドコンフィホテル熊本城ビューの部屋に足を踏み入れたとき、僕たちはあえて多くを語らなかった。ただ、窓の外にどっしりと構える熊本城の黒いシルエットが、僕たちの不安定な関係を静かに肯定してくれているような気がした。気圧がわずかに下がり、雨が降り出す前のあの独特な静寂が、部屋の中を濃密に満たしていた。
翌朝、1階のレストランで出された味噌汁の湯気が、僕の眼鏡を白く曇らせる。その瞬間、君がふふっと笑いながら、僕の眼鏡を指先でそっと拭った。指先の柔らかな温度が、鼻先に伝わってくる。熊本県産のお米が持つ炊き立ての甘みと、焼き魚の香ばしい匂い。そういう、ごく当たり前の感覚が、今の僕たちには何よりの贅沢な時間だったのかもしれない。カレーのおかわりをしようか迷っている君の横顔を見て、僕たちはそろそろ、同じリズムで歩けるようになったのかもしれないと感じた。
屋上の城見テラスに上がると、そこには五月の光が溢れていた。新緑の鮮やかさが目に刺さるほどで、遠くでバラや藤の花が咲き誇っているのが想像できる。廊下に飾られた絵画の静謐な空気から、一気に開放的な空へと突き抜ける感覚。僕たちは隣り合わせに座り、わざと少しだけ距離を空けていた。でも、ふとした瞬間に肩が触れる。そのわずかな接触が、どんな言葉よりも正確に「一緒にいたい」という情報を伝えてくる。ビジネスホテルという機能的な空間に、あえて圧倒的な歴史の景色を混ぜ込む。そのアンバランスさが、今の僕たちにちょうどよかった。
完璧に整った贅沢よりも、少しだけ隙間がある心地よさ。そこにあるのは、誰かに決められた正解ではなく、僕たちが自分たちで見つけた小さな心地よさだ。市電のガタンゴトンという音が遠くで聞こえ、街がゆっくりと目覚めていく。私たちはそのまま、しばらくの間、ただ風の音を聴いていた。もしかすると、旅というものは、目的地に辿り着くことではなく、こうして隣にいる人の呼吸の深さを知ることなのかもしれない。
チェックアウトの時に、僕がルームキーを財布にしまい忘れて、フロントの人に静かに差し出されたとき、君はまた笑っていた。そういう、ちょっとした格好悪ささえ、この街の光に溶けて心地よかった。
窓の外で、古き良きお城が静かに私たちを見守っていた。
- 屋上テラスで、あえて言葉を止めて、一緒に同じ方向を眺めてみてほしいな。
- 朝食の味噌汁を飲み干したあと、そのままゆっくりと街の匂いを嗅ぎに行こう。